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農業経営者ルポ「この人この経営」

イ(草)刈るか、生きるか

熊本県西部から八代海にせり出した広大な平野は、不知火干拓地と呼ばれている。総面積約530haが、まるで定規で線を引いたように区分けされ、長方形の圃場が海岸線近くまで延々と続く。八代地方が、イグサの産地として名高いことは改めて語るまでもないだろう。しかし近年では中国産畳表の影響を受け、トマトやキャベツなどとの複合経営に切り換える農家が増えている。
 熊本県西部から八代海にせり出した広大な平野は、不知火干拓地と呼ばれている。総面積約530haが、まるで定規で線を引いたように区分けされ、長方形の圃場が海岸線近くまで延々と続く。八代地方が、イグサの産地として名高いことは改めて語るまでもないだろう。しかし近年では中国産畳表の影響を受け、トマトやキャベツなどとの複合経営に切り換える農家が増えている。

 東孝雄さんもそんな転換に踏み切った1人だ。竜北町で現在4haを経営し、イグサ、モチ米に加え、キャベツ、バレイショを栽培している。

「中国産の畳表に押されたのは口惜しいばってん、良か品物を作っても値段を自分で付けることができん以上、仕方がなかですよ」
 やや湿った潮風が吹き抜ける圃場を前に東さんは言った。イグサの作付けは全盛期の約半分。目の前の畑にはキャベツが植えられている。けれども、この地区で際立つほどの機械化を図り、土作りにも力を入れた経営に自信を失ってはいない。イグサを作り続けているのも、品質では中国産に負けないという密かな自負による。


入植者2世。4haの水田にひかれ、農業に夢を抱いた


 東さんは父親の代に干拓地に移った入植者2世だ。実家はかつて、町内の集落で40aほどの農地を持ち、やはりイグサとコメを栽培していた。それだけでは生計を立てられず、海苔の養殖も手掛け、冬場は家族総出で胸まで海につかった。広い田んぼを持ちたいというのが一家の願いだった。

 昭和40年代の初め、県が干拓地への入植者を募集していると知った父は「コメだけ作れば生活できる」という謳い文句に誘われた。長男で、農業高校に通っていた東さんが後継者への意思を固めていたことが条件に合い、入植はかなう。

「入ってみると、やっぱりコメだけじゃ生活できませんでしたけどね。イグサも続けたし、小麦やタバコを作った時期もあった」
 そうは言っても土壌条件は良く、暗渠が整っていたため、一応は排水上の心配もなかった。何より魅力だったのが4haという面積だ。農業人生のスタートを切ろうという若い後継者に明るい未来を描かせるには十分な広さだった。

 イグサは昭和60年代まで、ほぼ完全に国産で賄われていた。畳表の製造まで一貫して行われるのが一般的で、生産農家は収穫を済ませると、色と香り、光沢を保たせるための泥染めをし、乾燥させた後で織機にかける。

 最盛期だった昭和の終わり頃、東さんはおよそ2haにイグサを作付けしていた。製造までこなせば10a当たり100万円は稼げた時代だ。倉庫の2階では織機5台をフル稼動させ、7月の収穫が終わるとほぼ1年中、時間さえあれば畳表を織っていた。

「あの頃は、自分で考えても値段が高かったですねえ」
 作れば作っただけもうかり、入札業者との間で値段が折り合わなければ売らなくて済んだ。しかし、やがて消費者嗜好が変化し始め、フローリングやじゅうたんが好まれるようになると、国産イグサの需要は転げ落ちていく。そこに中国産の輸入増が追い討ちをかけた。熊本のイグサ栽培農家は大打撃を受け、経営に行き詰まって自殺する人まで出た。

「イ(草)刈るか、生きるか」――。周囲ではこんな言葉までが語られたそうだ。生産者団体は中国産の輸入阻止を叫び、「百姓一揆」を模したようなデモも繰り広げられたが、ほとんど効果はなかった。

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