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農業経営者ルポ「この人この経営」

悔いなし、経営者として道を選んだ10年前の決断

「これが完成すれば、役員の座におさまるんだろうか」北に鳥海山、南に月山を望み、あたり一面水田が広がる庄内平野の余目町。ここに農協のカントリーエレベータ(以下、カントリー)の建設が始まった時、佐藤彰一さんはそんな考えに駆られたという。

「これが完成すれば、役員の座におさまるんだろうか」

 北に鳥海山、南に月山を望み、あたり一面水田が広がる庄内平野の余目町。ここに農協のカントリーエレベータ(以下、カントリー)の建設が始まった時、佐藤彰一さんはそんな考えに駆られたという。

「役員の座に安住するか、それとも経営者になるか」。周りには同じ考えを持つ仲間が7人いた。1995年、佐藤さんらは、米シスト庄内乾燥調製利用組合(以下、利用組合)を設立。後者の道を歩むことを決めた。米シストの名前は、佐藤さんがかつてバンドでベース奏者(ベイシスト)だったこと、またピアニスト、バイオリニストなど「○○する人(ist)」から、「米に関わる人々」という意味でつけた。


このままでは庄内米はダメになる

 利用組合ができるまでには、カントリー建設の他にもいきさつがあった。少し時はさかのぼるが、佐藤さんは1989年から、地元の生産組合長をつとめていた。彼が参加する組合長会議で『庄内米として売っている米の実態を調べてみよう』ということになり調べてみた結果、巷で庄内米として売られている米は、流通する過程で混米されてしまった「ひどいコメ」だった。

「このままでは庄内米がダメになる」、「だが、食管法のもとでは自由にコメを売ることもできない」――。出口の見えない議論が続くかに見えた。

「特栽米制度を使ったら?」――。1991年、佐藤さんは人の紹介を通じ、日本たばこ(JT)と組み、同社の開発した肥料や新品種の稲の栽培に参加するようになった。そこでJTの職員から初めて特栽米のことを聞いた。JTの職員は特栽米に限らず、米の流通や制度に対し、いかに多くの情報に通じているか、それに比べ、自分たちが行政やJAから得てきた方法がいかに一面的だったかを思い知らされた。翌年から、佐藤さんは全量農協出荷していたコメの一部を、特栽米制度を利用して親類などに産直で売るようになった。

 1993年。米の大不作で米屋からの注文の電話が殺到。ところが翌年は、「価格を下げてくれ」という依頼に変わった。凶作となると買いあさり、余れば値切る米屋の実像が透けて見えた。

「こんな商売をしていたら、お客さんの信頼を失うんじゃないか」――。それは、そういう米屋と付き合う自分にも当てはまることだ。信頼できる米屋以外とは取引をやめ、改めて売り先を探していくことになった。

 農協のカントリー建設が決まったのはちょうどその頃だった。そのまま行けば集落のまとめ役だった佐藤さんが役員になることはわかっていた。レールに乗るか、経営者になるか、決断を迫られた。周りには、同じく生産組合長をつとめながら、現状の農業に疑問を抱く仲間がいた。「わたしらは皆、経営者にならないといけないんじゃないか」。佐藤さんはこう訴えた。

 一方その頃、佐藤さんら大規模農家に対し、「田んぼを預かってくれないか」という依頼が多くなった。自前で施設を整えると莫大な費用がいる。「どうせやるならみんなでやろう」。

 こうして利用組合ができた。一人1,000万円ずつ借金し、カントリーを作ることにした。地域の生産組合長がこぞって抜けたことによる農協の反発は推して知るべしだ。

 だが、メンバーにはそれを感じる余裕さえなかった。コメの販売の後ろ盾はなくなり、いままでなかった費用も発生した。

 カントリーの固定資産税もそうだ。米シストの施設には150万円以上の固定資産税が課せられた。後で知ったことだが、JAのカントリーは『公共性の高い建物』だという理由で固定資産税から免れていた。「でも農協や行政の批判にはもう飽きてしまって(笑)。税金分を取り戻すには利益を上げるしかないと覚悟した」。

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