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特集

創刊100号記念特集 今こそ枠組みの転換を

 平成16年は、米政策改革大綱が実施に移された初年度ということで、我が国の農業界にとって区切りの年になるであろう。にもかかわらず大綱が実施に移された今年の集落座談会では、むしろ集落内での利害の対立が改めて表面化し軋轢が生じているという地域もある。しかし、歴史の流れは変わらない。農業の問題を農業・農村内部の利害調査で済ますことができる時代はとうに終わっているからだ。さらに、すでに34年前に日本の社会で生じていた“欠乏から過剰の社会へ”あるいは“空腹から満腹の社会へ”という大きな社会の変化に対して、食糧供給の当事者である農業界は被害者の立場で語る以外どのような理論を持ちえてきたのか。現在はすでに過去の結果に過ぎない。我々は未来から逆算する今を考えるべきである。枠組み(パラダイム)を転換することは困難を伴うものだが、未来を見据え変革を行うことができれば、この豊かな社会の只中にいる日本農業には無限の可能性が与えられているのだ。今回の特集では、現在の日本農業を作り上げてきた戦後農業の歴史を今一度確認するとともに、これからの農業の在り様を考えてみたい。
座談会「明日のために日本農業を総括する」

出席者:村井信仁(村井農場場主)/大泉一貫(宮城大学事業構想学部長)/関祐二(農業コンサルタント)/昆吉則(「農業経営者」編集長)

昆吉則(「農業経営者」編集長)この雑誌は、細川首相(当時)がガット・ウルグアイ・ラウンドに合意すると発表した1993年の春に創刊しました。それまで国会では「一粒たりともコメは輸入しない」という決議が何度も全会一致で繰り返されていました。それは政治あるいは国による農業管理、農業支配の終わりの始まりでした。それから11年、農業政策は大きく変化し、他の業界と同様に経営者自らの責任に任される農業経営の時代が始まりました。

 飢えの中で始まった敗戦後の日本の農業政策でもっともインパクトが大きかったのは農地改革だと思います。今、未来から逆算する農業経営を考えるために、その辺りから日本農業の越し方を反省する必要があるのではないでしょうか?


農地改革とは何だったのか


村井信仁(村井農場場主)4人の中で私だけが昭和ひと桁生まれですね。私は、農地改革は世界でもまれな善政だったと考えています。政府が地主から土地を高く買い、小作に安く売った。彼らにチャンスを与えたのです。戦前の小作人は物納などでかなり虐げられていましたから、自分の土地をもったことで、ハッスルしました。技術レベルが高まり、生産性も上がった。その結果、食料不足が解消したという側面は評価できます。

昆 もし農地改革がなかったら、戦後の日本はもっと大混乱に陥り革命が起こっていたかもしれません。しかし、同時に農地改革とは農村からの経営者の追放だった。地主や自作農に代わって農林官僚が日本農業の経営者となり、個々の農家は大きな保護を与えられる代わりに、自らは借金する作男のような位置に置かれてきたのではないでしょうか。社会主義国以上に日本農業が社会主義的であり、「経営」というものをまともに考える習慣が育たなかった。そこに戦後農業のベースがある。
大泉一貫(宮城大学大学院教授)農地改革はある種の社会保障政策だったのではないかと思っています。これによって戦後の自作農という中流社会のベースが生まれ、保守政権の安定基盤層として機能した。とりあえず自立はしたが、土地に縛られ、国の補助金に依存する大衆を作ってしまったとも言えます。

 その後、農業基本法(1961年)で、国は伸びる農家を伸ばし、伸びない農家を作らないという選別政策に移ります。ところが、米価を上げ続けたために選別は一向に進まなかった。例外的に選別が進んだのが、稲作地帯ではない北海道だったということでしょう。

村井 その意味では、やはり農業は政治に振り回されたとも言えるかもしれません。北海道では中途半端な規模では経営できませんから、1960年ぐらいから離農が加速しました。高度経済成長期に入ると、都市が労働力を必要とするようになり、離農者の農地を次々に取得する大規模農家が出てきます。これ自体は自立精神以外の何物でもないと私は考えているのですが。
昆 戦後最初にトラクタを買ったような人たちや、「北海道土を考える会」のメンバーと重なる層ですね。

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