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特集

創刊100号記念特集 今こそ枠組みの転換を



5.省力化から質向上のための機械化へ


 コメ余りは恒久化し、1985年あたりから稲作機械の普及は下火になっていった。稲作機械の販売が順調であった間は野菜機械への進出をためらっていた研究機関や農機メーカーも、平成に入って本格的に野菜の機械化体系に本腰を入れ始めた。野菜用の移植機や播種機が現れ、野菜専用の機械が作られはじめた。野菜における機械化一貫体系が意識されるようになって、実はまだ10年ほどしか経っていない。作物は量から品質を問われる時代になった。戦後の機械化は人力に代わるもの、省力になるものを追い求めてきたが、これからは作業の質を高めるための機械化が必要とされる時代である。

 雨の多い地帯であるにもかかわらず宮崎県の都城の農家は、人力作業の時代に鍬でおこし播種した後、丁寧にマンガという道具で土を押さえていた。鎮圧することで発芽がよくなり、後の気象変化にも耐えることができる。そういった昔の農家の知恵を活かすことなく機械化が進め、ただロータリをかければよいというのではなく、機械によって作業の質をどう高めていくかを考えないといけない。

(インタビュー・まとめ 編集部)


■増田治策
新農業機械実用化促進(株)
【プロフィール】
1954年三重大学農学部卒業。新潟県農業試験会場農機具研究室、農林省四国農業試験場土地利用部農業機械研究室、農林省吸収農業試験場畑作部農業機械研究室、農林省草地試験場施設機械第1研究室、全国農業協同組合連合会農業機械部を経て、1993年より新農業機械実用化促進(株)技術主管。


《水稲の品種栽培技術》日本農業の形を決定づけた3つの農業技術/西尾敏彦((財)日本特産農産物協会 理事長)


 戦後の農業技術の主流は、やはり稲作の技術にであったといってよいだろう。なかでも、保温折衷苗代、室内育苗、コシヒカリの開発は、世の中を変え、戦後の農業の形を決定付けた技術であるといってよい。


1.水稲栽培を一変させた保温折衷苗代


 敗戦後、この国は自国の米の生産量だけでは国民の食を賄えず、飢餓状態にあった。今では考えられないことだが、私が大学生であった当時の学園祭のメイン・テーマは、「日本はコメを自給できるか」だった。

 そんな飢餓の時代に現れたのが「保温折衷苗代」の技術だった。この育苗法は、日本の稲作に革命を巻き起こし、水稲栽培の有り様を一変させるきっかけを作った。

 1931年の大冷害の年、近隣の水田を見回っていた荻原豊次氏(長野県軽井沢町)は、「寒冷地の稲でも早植えができれば、冷害を避けることができ、収量も多くなる」ということに気付いた。しかし、当時一般的であった水苗代では、播種時期がどうしても気温に左右され、早植えができない。そこで荻原は、溝にだけ水を張る折衷苗代に芽出し種子を播いて焼き籾殻をかぶせ、油紙で被覆する「油紙保温折衷苗代法」を開発した。第二次世界大戦中(1942年)のことであった。

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