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旅の曲者

グルメになれなかった私

旅の楽しみのひとつが、食べることにあるのは否定しない。アフリカや中東あたりから、中国や東南アジアなどに行くと食べ物の美味さに感激してしまう。初めて北京に行ったときなど、ローカルなレストランで食べた食事が安いうえ、じつに美味なので、文字どおり腹をこわしながら食べつづけた。それまで自分は、あまり食べ物にこだわりがないと思っていたのだけれど、思いがけず新しい自分に出会ってしまった。
旅の楽しみのひとつが、食べることにあるのは否定しない。アフリカや中東あたりから、中国や東南アジアなどに行くと食べ物の美味さに感激してしまう。初めて北京に行ったときなど、ローカルなレストランで食べた食事が安いうえ、じつに美味なので、文字どおり腹をこわしながら食べつづけた。それまで自分は、あまり食べ物にこだわりがないと思っていたのだけれど、思いがけず新しい自分に出会ってしまった。
 けれども、一方で「美味い」という感覚はじつに曖昧だ。最高の素材といわれるものをつかって、一流の料理人が調理したものが美味いかというと、そうともかぎらない。美味い、不味いという感覚は、自分がどんな食文化の中で育ってきたかによって、大きく左右されるからである。

 スーダンの山の中でしばらく暮らしていたとき、近所の茶屋の若者二人と食事をともにしていた。いつもご馳走になるのも悪いので、トウジンビエの粉を三人で買って、それを調理して食べていた。その地域では、このトウジンビエの粉をお湯で練ったものに、オクラをすりつぶしたスープをつけて食べる。朝も昼も晩も、同じである。それでも彼らは、毎食変わらないこの献立をほんとうに美味そうに食べていた。二人は食事のたびに「マチ、アシーダ(トウジンビエの練り物)とムラ(オクラをすりつぶしたスープ)は最高だろう」と、ぼくに同意を求めた。

 平均的な日本人の味覚からすれば、アシーダとムラはけっして美味いとはいえない。アシーダはぼそぼそしていて、ほとんど味気がないし、オクラのスープであるムラにはかすかな塩味がついている程度である。よくいえば素朴、悪くいえば単調このうえない味である。

 それでも、若者が時間をかけてつくってくれるアシーダとムラは、ほんとうに美味しく感じられた。それは、おそらくぼくがこの山の村の雰囲気を心から気に入っていて、そこに身を置いていることを幸福だと感じていたからかもしれない。

 湯気のたつアシーダを手で口に運んでいると、若者が、日本ではなにを食べているんだいと訊いてくる。この質問は答えにくい。日本の主食は米だけれど、アシーダとムラのように、だれもが毎食欠かさず食べているわけではないからだ。

 ちなみに、このあたりでは、米を砂糖と湯で茹でたものをおやつ代わりに食べることがある。だから、日本では米を食べている、しかも砂糖も入れないでというと、なんとおまえたちは哀れな食生活をしているのか、アシーダとムラを日本にもって行って、おまえの家族に食べさせてあげなさいと気の毒がられた。かといって、日本でアシーダとムラをつくって食べても、きっと美味しいとは感じないだろう。あの言祝ぐような時間と空間の中にあるからこそ、この食事は美味いのだ。

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