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新・農業経営者ルポ

農村が最先端に躍り出る日

オイルショックを機に脱サラ・Uターン就農

 新福は、1952年、都城市の農家に四人兄弟の四男として生まれた。父は3ha弱の田畑をもち、コメ・麦・根菜の栽培と和牛の繁殖を手がけていた。地域では典型的な複合経営だったが、少年時代の新福は、「大」がつくほど農業が嫌いだった。

 「絶対にいや。やるもんかと思っとった。作業は機械化されてなかったし、将来が不安で目標も持てない。稲刈りの手伝いに駆り出されるのもいやでいやで、とにかく早く社会人になりたかったね」

 父親は「苦労させたくない」と息子たちに跡を継がせようとしなかった。その方針通り、兄たちは就農せず、新福も「手に職をつけたい」と工業高校に進んだ。

 卒業後は、大手石油化学メーカーの研究所に採用が決まり、名古屋でサラリーマン生活を送った。ところが73年、第1次オイルショックが起きる。配置転換や人員整理に慌しく動く会社を見て、新福の気持ちは揺らいだ。

 「安心して暮らすためにサラリーマンを選んだつもりだったのに、大企業でもぐらつくんだなと不安になった。会社に人生を振り回されるより、自分の一生を賭ける場所を探したい。それなら、自分なりの農業をやってみようかなという気になった」

 父親からは「馬鹿じゃないのか」と反対された。頑固親父なりの愛情表現だと知りつつ、23歳の末っ子は押し切るように家に戻った。「自分なりの農業」に目論見も展望もなく、ただ、窓のない研究室から解放されたのが心地よかった。


集荷業から直営中心に地域の資源を守る

 現実の厳しさに突き当たったのはそれからだ。実際に親の仕事を手伝ってみると、面積は狭く、仕事がきついわりに、給料も休みもない。

 なぜ、農作物に自分で値段を付けられないのかという疑問も湧いた。農家は生産したモノを農協に出すだけ、農協は市場に運ぶだけで、値段は相場に左右される。価格にも品質にもだれも責任を負わず、農家の所得はいつまでたっても安定しない。

 所得の不安定さゆえに、投資もできない。この状況を新福は仕方ないと受け止めるのではなく、「矛盾」と捉えた。

 「お金をもらうのは、モノでなく『食』に責任を負うことですよ。農業はもうかればいいというものじゃないけど、きちっとお金がもらえるような事業でないと経営は成立しない」

 就農から8年目、地元生協に産直で根菜を送り始め、コメと和牛からは撤退した。さらに、近隣生産者との契約で集荷業を起こし、87年に法人を設立した。

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