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新・農業経営者ルポ

ハーブを「必然」にした40年

 大使館の手配でチケットは取れ、夫妻は無事、招待に応じることができた。ランチでは御馳走を味わったが、スコッチを5時間飲まされ続け、何を話したのかよく憶えていない。

 けれども、熱意は十分に伝わったようで、マナーズ卿との交友は長く続く。卿は日本に向けて頻繁にハーブの種子を送ってくれ、霜多が欧州の農場を視察したいと言えば、必ず相手先に紹介の電話をかけてくれた。

 「ものすごく人に恵まれたんだよね。運もよかったし、人との出会いが財産になった」

 チンゲンサイが国内に浸透し始めると、霜多は経営をハーブ中心に切り換えた。


売れるハーブとは何かを考え1年間無料で出荷した

 「昔の営業方針は、まず断わることだった。相手がハーブをよく知らない人間だったら、『お前には売んないよ』って断わる。電話がかかってきても、ガチャンと切った」

いわば“ケンカ商法”。断わられた方は霜多を忘れない。「それでもハーブが必要なら、必ずこっちに来るんだから、それからじっくり付き合えばいい。人それぞれに独特な売り方があっていいんだと思う」 最初に商品化できたハーブは、アイスクリーム用のスペアミントだった。次に求められるのは何か。「ハーブを世の中に普及させるには、まず何が一番よく売れるかを考える必要があった」と霜多は振り返る。

 狙いをつけたのは、イタリア料理に欠かせないバジルとイタリアンパセリだ。特にバジルは冬期の栽培が難しく、以前は代替品として堂々とオオバを使うレストランさえあった。そこで、霜多は1年間、毎日10ケースを無料で出荷し、顧客に周年供給態勢をアピールした。

 80年代後半から90年頃にかけて、巷では「イタメシ・ブーム」が起きた。イタリア料理はその後すっかり定着したが、「ブームを原材料の面で支えたのは自分」というひそかな自負が霜多にはある。

 その後は現在に至るまで、基本的に値引きをしていない。手作業が多く、収穫のうち、少しでも不良とみなしたものは出荷しないため、コストはどうしても高くつくからだ。

 代わりに、一度信頼関係を築けば、どんなことがあっても取引先は大切にする。「相手が材料不足で困っていたら、こっちで輸入してでも間に合わせた。責任はとる。お客さんをだまさない。これが大事なんだ」

 そんな一徹ぶりは「40年をかけた」という土作りにも貫かれている。


土作りで作物の機能を高め消費者の信頼に応える

 若い頃の霜多が、いわゆる有機農業に近づいていったのは、連作障害に対する疑念からだった。土を良くすれば、障害など起きるはずがない。そう信じて堆肥を作った。微生物資材もさんざん試したし、欧州と日本の土壌成分を比較してもみた。

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