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新・農業経営者ルポ

我あえて火中の栗<GM>を拾う

 この年、団体側はさらに強硬だった。現場では「畑をつぶす」「やめてくれ」などと押し問答が続き、すき込みは、運悪く長友が別の試験地、岐阜県にいる間に起きた。

しがらみが会をしめつけるなぜ、農家だけが矢面に

 この事件以来、長友の家には、恫喝めいた口調のいやがらせ電話がかかってくるようになった。インターネットで名前を検索すると、批判的な文言が並んだサイトがどっと画面に現われる。

 「まるで、ケシでも栽培したみたいです」と、本人は自嘲気味に語る。もっと苦しいのは試験栽培の続行が困難になったことだ。この年、懇話会では谷和原村に続き、岐阜県瑞穂市、滋賀県中主町でも試験を予定していたが、両県は「風評被害の心配」を理由に中止を求めた。長友たちは従うしかなかった。

 さらに自治体には、栽培規制の動きが広がった。岩手、茨城、滋賀各県ではガイドラインや方針で栽培を規制、北海道では無許可栽培に罰則を科す条例を制定しており、06年から施行する。

 懇話会では04年以降、試験栽培をしていない。あきらめたわけではなく、会の中には続行を求める声もある。だが、「これ以上、地域で騒ぎを起こしたら、生きていけない」と悔しそうに語る会員もいる。長友も再開には踏み切れない。

 「農家はだれでも、なんらかの形で地元の行政や農協とかかわって仕事をしているんです。強引に試験をやれば、村八分にされる。会員が農業を続けられなくなる」

 栽培許可が下りていたはずなのに、GM作物を作ろうとすると、どうしてここまで反発をくうのか。なぜ、矢面に立つのは、農家である自分たちだけで、行政や農業団体、開発メーカーはこの問題で消費者と向き合おうとしないのか。GMを巡る議論が深められず、対立の構図だけが鮮明になる中、長友には農業の将来がかすんで見えた。


息子を跡継ぎにできなかった矛盾と責任感

 長友が生まれたのは1944年。実家は宮崎市で7反ほどの田畑をもち、コメ、野菜を作っていた。コメよりは、サトイモやサツマイモばかりを食べて育った記憶がある。父からは「農業ではメシを食えんから、技術を身につけろ」と言われ、中学を出ると、自動車整備工として働いた。専門学校と定時制高校に通いながらだった。

 その後、「東京に行けば、もっと車がたくさんあって、腕が磨ける」と思い、上京。数年間、大手自動車会社に勤めた。67年、故郷に戻り、自ら整備工場を始め、同時に兼業農家として跡を継いだ。

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