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新・農業経営者ルポ

我あえて火中の栗<GM>を拾う

 整備工場の経営は順調だったという。が、オイルショックが起きた時、これからは整備も大手メーカーが自前でこなす時代になると考え直した。9年で工場をたたみ、長友は貸しビル業を営みながら、本格的に農業に取り組み始めた。

 「他産業で働きながらも、世の中で一番大切なのはやっぱり食料だと思っていました。だから、よし、やろうと。親父には反対されましたが」

 規模を拡大し、機械化も周辺農家に先駆けて進めた。80年代には県内の仲間と勉強会を起こし、作物・品種の選択や技術について意見を交わすようになった。その流れが今のバイオ作物懇話会へと続いている。

 また、農業経営にやりがいをおぼえるにつれ、疑問も膨らんでいった。補助金によりかかり、意欲を失った農家たち、硬直的な営農指導を繰り返す農協。「飽食」に浸りきり、生産現場を顧みない消費者。

 「高齢の農家はみんな自分ができる間は続けると言います。しかし、近いうちにやめていく。じゃあ、今の農業に魅力はあるんでしょうか。努力して収量を上げ、利益を得る。その満足感や夢がなかったら、農業はできんですよ」

 長友は男女2人の子供を大学まで通わせた。長男が高校進学を控えていた頃、「跡を継ぐ気があるのなら、田んぼは増やしておく。勉強を続けたいなら、家屋敷を売ってでも大学に行かせる」と告げた。

 長男は「勉強したい」と言った。そして大学に進んだ後、東京で働き始めた。

 息子の選択をよしとしながらも、長友には複雑な思いが残った。

 「息子に跡を継げとは言えなかった。これは、自分がやってきたことと矛盾するのかもしれません」。そうつぶやく姿は、老境に差し掛かった一人の農家だ。

 「ですから、なおさら考えるんです。農業を発展させるためにどうしたらいいか。何か役に立てないか。責任を果たすと言うたら、大げさですけどね」

 谷和原事件から、間もなく丸2年が経つ。発生直後に長友らは茨城県警に被害届を出し、しかも現場には多くの目撃者がいた。にもかかわらず、なぜか捜査は進展する気配を見せていない。

 けれども事件をきっかけに、「どの自治体もある程度、GMの知識を身に付け始めた。少しずつ、直視するようにはなってきた」と、長友は今の状況を眺めている。結果として懇話会は一石を投じたことになるのだろうか。


新たなものが世に出た時誰かが行動しなくてはならない

 懇話会を攻撃材料とする反対派は、会とモンサントとの関係をことさらに取り上げる。モンサントは除草剤と種子をセットで売り、市場を支配、独占するために「懇話会を使っている」との“陰謀説”だ。

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