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新・農業経営者ルポ

南北の“距離”を越えたキャベツメーカーの志

北海道南幌町の農業生産法人(有)job(ジョブ)。キャベツ生産を事業の軸に据え、設立から2年で「日本一」の看板を手に入れた。社長、川平浩昭は「冬の雪を言い訳にしない経営」を確立するため、道外の拠点作りにも動く。北の経営者がはるか彼方の地と出会った時、農業の新たな未来が開けた。(秋山基)
 頼りは一冊のファイルだった。

 日本各地の遊休農地の一覧表。全国農業会議所のホームページからデータを引き出し、「冬期に積雪がない場所」を選んでまとめたものだ。

 2003年2月、川平浩昭はそのファイルを携えて旅に出た。地元・北海道南幌町では、仲間3人とともに、キャベツ栽培を軸とした生産法人の立ち上げ準備が進んでいた。が、あえて多忙を顧みず、ひとり北海道を後にした。

 最初に訪れたのはキャベツの産地でもある千葉県銚子市だった。そこから、レンタカーや鉄道を使い分け、神奈川、静岡、愛知と西へ進んだ。ファイルから当たりをつけた土地に着くと、まず農業委員会に電話をかける。

 「北海道の者です。キャベツを作れる農地をお借りできないか、お話をうかがいたんですけど」。そう申し出ると、一応は担当者が会ってくれた。川平は希望条件を伝え、現場までの地図をもらって、農地に足を運んだ。ところが――。

 「とてもじゃないけど、大規模栽培に使えそうな農地はなかったですね。山の中の田畑だと、トラックも入っていけないし、好条件の場所では一年中野菜を作っていて、入り込む余地がないんです」

 役場の窓口で冷たくあしらわれたのも、一度や二度ではなかった。職員の口ぶりからは「よそ者に貸す農地などない」という姿勢がありありとうかがえた。

 「世の中は甘くないって痛切に感じましたよ」

 農地探しははかどらず、見知らぬ地で役場と農地を行ったり来たりし、疲れて宿に帰る日々が続いた。東海地区を回り終えると、関西、さらに中国地方に足を伸ばした。移動費や宿泊費がかさみ、焦りも募る。財布の中身は気になったが、せめて、その土地で一番美味しいものを食べようと、半ば意地になって名物を食べ歩いた。

 九州各県に入っても、これと言った農地は見つからなかった。「最後にしよう」と思ってたどり着いたのが、鹿児島県出水市だ。これまでと同様、農業委員会に顔を出すと、応対した担当者がつぶやいた。「冬に使いたいの?裏作のない田んぼならたくさんあるけど、そんな所でいいのかなあ……」

 実はその時まで、川平は水田裏作を念頭に置いたことはなかった。すぐに現場に向かうと、平地で面積が広く、近くにJAの関連施設もあった。周辺には兼業農家が多く、人手集めにも困らなそうだった。

 「ここだ」。胸の中で小さく叫んだ。最初に北海道を出てから、約1カ月半。はるか西南の地で、ようやく一筋の光明が射した。


後継者の我が身を呪う大規模化にも不安が

 川平が社長を務める(有)job(ジョブ)は、南幌町内の4戸がまとまって設立された。各戸から借り受ける形の72haに、近隣からの借地などを合わせ、現在は同町内で103haを経営する。

 主力作物は、町が指定産地となっているキャベツで、今年は約34haを作付けする計画だ。その他、水稲23ha、テンサイ4ha、小麦46haなどを生産し、輪作体系をとっている。

 「ジョブ」という英語社名には「仕事」と「勤め口」という2つの意味を込めている。「明るく、楽しく、良い仕事をしてもうけたい。それと、農業に雇用を生み出すイメージを加えたかった」と川平は社名の由来を説明する。

 ご多分に漏れず、南幌町でも農家戸数は年々減っている。ただ、札幌市まで約25kmという利便性から、近年はベッドタウンとして人口が増えつつある。ジョブの現場作業で中心的な役割を果たす女性パートにも、サラリーマン世帯の主婦や非農家出身者の若者が多い。

 「高齢化、担い手不足と言うけど、努力して知恵を絞れば、自立した農業ができる」と川平は力強く語る。「その代わり、やる以上は責任を果たして堂々と権利を主張する。農家が補助金をもらっていながら所得税も払えないと言ったのでは、消費者が納得しないでしょう」

 キャベツで34haという面積は、単独の経営体では「日本一」だろうと川平は見る。誇りと、それを支える経営はだれから譲られたものでもない。

 1964年1月、川平は約15haの米麦農家の長男として生まれた。跡継ぎと目されて育ち、「洗脳されたように」農業高校から短大の農業機械科へと進んだ。けれども、「内心では我が身を呪っていた」。早朝から働き、親と寝食を共にする農家の暮らしがいやでたまらなかったのだ。

 一時期、本気で調理師学校に行こうと段取りをつけたことがある。しかし、父親に「短大の学費分ぐらいは、うちで働いて返せ」と言われ、踏み止まった。短大を卒業すると就農し、23歳で結婚、子供も生まれた。この時点で調理師の道は捨てた。

 好き嫌いだけで農業を眺めていたわけではない。学生時代、授業や講義では、北海道農業の将来像として「大規模化」が盛んに語られていた。だが、川平は、個人単位の規模拡大は負債の上にしか成り立たないのではないかと疑問を感じていた。

 「自分で金利を計算してみても、個人経営に借金を返済し続けられる利益率があるとは、どうしても見込めなかった。しかも、貿易摩擦で輸入農産物がどんどん入ってくるでしょ。国内農業をどう育てるのかというイメージすら見えませんでしたよ」

 時代はバブル経済に向かって突き進んでいく。高校の同級生の大半が一般企業で働き始めるのを横目で見ながら、「これで農業に将来があると言えるのか」と不安を抱いた。

 就農当時、川平家はコメ・麦に加え、キャベツを少しずつ作り始めていた。当初、川平は家の仕事を手伝い、小遣いをもらうだけだったが、父親が還暦を迎えた年、ようやく経営を任されることになった。「その時初めて、家の借金が想像以上だったと知りましたね。土地、機械の購入や住宅建設で抱えたんでしょうけど、下手すれば離農だと思って、めまいがした」

 迷わず、経営の柱をキャベツに切り換え、コスト増を覚悟で雇用を導入した。幸い、運が川平に味方した。作付けを増やした年にかぎって価格が高値で推移し、相場の波をうまく乗り切れた。

 小豆の高騰でもうけた年もあり、借金は5年間で返済できた。

 「実力ではなく、ついていた。農業はうまくやれると面白いと感じたけど、個人経営を続けていても限界がある。やはり会社にしないとやっていけないなって思っていました」川平が欲しかったのは、「自分の指示通りに動いてくれる組織」だった。運転資金がある程度貯まった頃、頭の中では法人化のイメージがほぼ固まっていた。

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