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新・農業経営者ルポ

農家としての価値観。実業家としての夢

 就農した時期から、実家ではサトイモやゴボウの露地栽培に取り組み始めていた。収穫物を宮崎市などの市場などに運ぶのは四位の役目だったが、しばらくすると「もっと先の顧客に売れないものか」という気持ちがわいてきた。

 24歳の時、四位は関西や関東の市場に出かけ、サトイモの売り込みをかけた。問屋の大半は「個人とは取引できない」といった反応だったが、中には少量でも取引に応じてくれた所があった。

 その少し前、父親が地域で集荷業を手掛けるようになり、78年には、一家で四位商事(株)を設立した。四位は県内外の農家や農協を回って、サトイモ、ゴボウの栽培を依頼。各地に生産グループを作るなど、産地化を目指して奔走した。

 だが、取引先の希望通りに品質、規格を揃え、相手が欲しい時期に商品を出荷するのは容易ではなかった。品物が足りない場合には、四位家の畑をクッションとし、なんとか量を揃えていた。「それでも、だんだん、取引先からクレームが来るようになってきた。どうにも、このままではまずいと焦った」

 その時、四位は海外でサトイモ、ゴボウを生産してもらい、集荷することを思いつく。産地のど真ん中から個人の農家が海外を目指すなど、まだ、誰も考えようとはしなかった時代にである。

「無謀でしたよね。だけど、取引先が欲しがるものを、収支を見ながら作るだけのことです。じゃあ、海外に行くのは大変なのか。そんなことないんですよ」

顧客のために海外へ進出価値観守るため国内回帰

 たまたま農薬を扱う小さな商社に相談してみると、台湾行きを提案された。台湾に行けば、現地の青果業者が助言してくれ、生産から集荷までのルートが出来た。あとは国内の販売先にそのルートをはめ込めばよかった。台湾で足りなければ中国へと、生産拠点を拡大した。

 80年代、四位は月に4?5回は台湾に足を運ぶほど多忙な日々を過ごした。しかし、次第に「待てよ」と考えるようになった。

 一つは、新たなうねりが見えてきたからだ。大手商社が、種苗会社や肥料会社のOBや技術力のある農家を集め、中国で農産物を作らせて、大々的に輸入し始めた。事実、四位にも「栽培指導を手伝ってくれないか」と声がかかった。その誘いは断わったが、「我々が対等にやれる時代は終わるな」と直感した。

 もう一つ決定的だったのが、農薬の使用実態だ。当時、中国産の農産物は日本での植物防疫をパスするため、収穫物を農薬のタンクに浸けてから箱詰めしていたという。ある日、その光景を目の当たりにした四位は「もう、輸入はやめよう」と心に決めた。「日本人バイヤーにとっては野菜に虫が付いていなくて、病気が出なかったらいいわけです。中国側は要望に応えているつもりだったのでしょう。でも、あれはいかん、おかしいと思った」

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