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新・農業経営者ルポ

父と地域と自分とで育てたブランド茶

静岡県西部の山間地で茶の有機栽培に取り組む鈴木猛史。低地に比べ茶の出荷時期が遅く交通の便もよくない悪条件に対し、地域ブランドを持つことで対抗している。ブランドを支えているのは、父と仲間が育てた共同組合と、品質を評価した地元製茶メーカー。鈴木は共同組合の事務方を努める一方、栽培技術の向上にも精を出す。市場開拓にも熱心だ。その目は今、国内から海外へ向けられている。(松田恭子)
 10月下旬、一包みの緑茶の茶葉がスロバキアに届いた。クリスマス商戦をにらんで日本からサンプルとして送られたものだ。

 スロバキアは人口の60%以上がカトリックの国で、クリスマスは1年で最も大きな行事の一つだ。物価が日本の3分の1で、50g当たり400円前後の茶はクリスマスプレゼントとしては手ごろな価格だ。

 茶を現地の小売店に売り込んだのは台湾人の茶商。凍頂烏龍茶(台湾中部の凍頂山付近で産する台湾高級烏龍茶)をロシア・ヨーロッパに向けて輸出している。そのネットワークで静岡産の茶を紹介した。

 茶の送り主は、静岡県春野町の鈴木猛史。

 標高450mの山間地で、昨年の降水量は年間4000mmと、多雨で知られる三重県尾鷲市と並ぶ多さ。圃場の下遥か300mをこの雨水をたたえた不動川が流れ、天竜川に注いでいる。

 交通の便は悪い。加えて一番茶が出るのは他の地域より7日遅れ。八十八夜の商戦では致命的な遅さ。

 山間地の茶の生き残り戦略として品質面での付加価値や収穫・製茶の共同化が指摘されているが、鈴木は販売面の共同化で地域ブランドを育てた。


家業と「大きな夢」は両立するものかと迷う

 鈴木は1969年、茶農家の5代目として生まれた。4~5歳の頃、父の嘉津雄が仲間と茶の作業の共同化を始め、数年後には工場も共同化した。

 小さい頃の父親の印象は一言で言うと仕事好き。父親の姿を見て、共同で仕事をするときに中心になる人たちがどのくらい他人の面倒を見ればよいか、加減があることを感じとったことが大きな収穫だったという。

 しかし、鈴木自身は家の手伝いはほとんどしなかった。「まあ、なかなかアマアマで育てられました」と鈴木。父本人によれば、「わんぱくとかガキ大将とかではないが、手がかからない子供だった。好きなようにやらせてきた」。

 そんな父親が小さい頃に鈴木に言ったのは「大きな夢を持て」という言葉だ。そう言われると農業、それも家業を継ぐだけじゃいけないのかと思った。それで、大学でやりたいことを見つけられるといいと期待を抱いていた。1988年、筑波大学農学部に入学する。

 大学で一番勉強になったのは、自主ゼミ(サークル)で不耕起栽培をしたり熱帯林を見に行ったりした経験だ。時はバブル。学生の間では環境とバイオがブームだった。鈴木も他大学が都内で大規模な勉強会をすると聞けば紛れ込んで参加した。「あの頃は皆そんな熱気があって、何でもやった」(鈴木)。

 当時、有機農業に関心を持つ学生には必読書と言うべき本が山ほどあった。鈴木もそれらを読みあさった一人だ。その中の一冊に「学生は社会に貢献しなければならない」ということを説いた一節があった。鈴木はそのくだりに感銘を受け、以来、胸中にはいつもその一言があった。そういう時代に、「環境問題に興味を持つ真面目な学生が考える就職先」は、研究職かNGOだった。鈴木は英語が苦手で胃も弱く、海外には対応できないとNGOには早々に見切りをつけたものの、彼には研究職の道が開かれていた。しかし、真っ直ぐな鈴木は、「現場を知らない自分が研究を重ねて役に立てるのか?」と、立ち止まってしまう。

 現場を知らない研究者が多かった。尊敬できる研究者は、自分で圃場を持ち、外部の雑多な環境の中で仮説を立てて実験室に反映させるという研究スタイルを持っていたが、それは少数。自分が尊敬できない方になってしまうのではないかと思うと怖かった。だから現場を知りたいと思った。

 家業を継げば、現場を知ることにはなる。しかし、それは社会に貢献することになることなのかどうかというためらいもあった。

 確信は持てなかったが、「社会に貢献」の言葉を胸に山に入った。93年のことだった。

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