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新・農業経営者ルポ

コメにも土地にも縛られない自分の道

大潟村といえば、戦後日本農業における一つの聖地といってよい。戦後の食糧不足を打開すべく、日本第二の湖だった八郎潟を干拓して作られたコメ増産の一大実験場だったからだ。ところが第1次入植から約40年を経て、減反政策やコメの自由化など、国の農業政策は大きく転換した。そんな中、入植者の第二世代に当たる宮川正和氏は、大潟村の原点とも言える稲作をやめた。「コメをやめたことで、自分のやるべきことが10年先まで一瞬にして見えた」と語る宮川氏は、現在、野菜や花卉などを手がける。波乱に満ちた宮川氏の試みは、新しい時代の営業について多くの示唆を与えてくれる。
戦後日本農業最大の実験場にやって来て

 JR奥羽本線八郎潟駅から車で西に向かうと、5分ほどで川を渡って大潟村に入る。もっとも川というのは正確ではない。正しくは「東部承水路」と言い、この水路が周囲82kmにわたる大潟村を取り囲んでいる。

 水路を渡ると、風景の印象ががらりと変わった。道路はどこまでもまっすぐになり、傍らには防風林のポプラ並木が延々と連なる。並木の向こうには水田が広がっているが、家並みは見当たらない。自然は豊かなのに整然としていて、どこか工業地帯を思わせる。

 「40年前、まだ幼稚園児の頃、父に連れられて初めてこの村にやって来たときも、この道を通って来たんです」│ハンドルを握る有限会社正八代表の宮川正和氏は感慨深げに語る。

 「冬の夜でした。父の運転する車に乗って来たのですが、当時は明かり一つなく、どこまで行っても真っ暗な砂利道が続いていました。車が進むうちに、だんだんラジオの音もかすれてきて、どこかに捨てられに行くのではないかと不安で心細くなった覚えがあります。あの頃は防風林も、田んぼもなく、一面砂漠のようなところでした」

 宮川氏がそう語る大潟村は、いわば戦後の農業のあり方を変える壮大な試金石だった。50年前、戦後の食糧不足を解消する目的で、琵琶湖に次ぐ日本第二の湖であった八郎潟を干拓して作られたこの村は、広大な耕作地で大規模な機械化農業を行う、いわば新しい営農スタイルのモデル地域だった。

 入植希望者は全国から募集された。審査は厳しく、倍率は十倍にも達した。選抜された農民たちは、大型機械を導入した営農に対応できるように1年間にわたって訓練を受けた後、やっと入植を許されたのである。

 こうして1967年の第1次入植から74年の第五次入植まで、5回にわたって580戸が入村した。入植者1世帯には当初10ha(後に15haに拡大)という破格の面積の耕地が割り当てられた。宮川正和氏の父正春氏は、その第1次入植者世代に当たる。


同居しながら独立最初のコメは大凶作

 しかし、大きな理想とは裏腹に大潟村の開拓はさまざまな困難との闘いだった。軟弱なヘドロ土壌は耕作に不向きだったし、冬には冷たい北西風が吹き荒れ、春は砂嵐に見舞われた。

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