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新・農業経営者ルポ

稲の根が土を抱くように、深く顧客と通ず

おそらく、この人を一番よく知っているのは、全国の小学生たちではないだろうか。阿部善文さんは3年前から、NHK教育テレビの学習番組「おこめ」に出演し、自らの圃場からコメ作りの様子を分かりやすく伝えてきた。番組のサイト上では作業日誌を公開しているほか、様々な質問にも答えている。本人を模したマンガキャラクター「アベさん」は、子供たちの先生役だ。
 おそらく、この人を一番よく知っているのは、全国の小学生たちではないだろうか。

 阿部善文さんは3年前から、NHK教育テレビの学習番組「おこめ」に出演し、自らの圃場からコメ作りの様子を分かりやすく伝えてきた。番組のサイト上では作業日誌を公開しているほか、様々な質問にも答えている。本人を模したマンガキャラクター「アベさん」は、子供たちの先生役だ。

 きっかけは、かつて余ったイネの苗をコメの直売顧客に送り、家庭でのバケツ稲作りを提案したことだった。顧客の1人、東京の小学校教師がこれを授業に取り入れ、都会の子供たちと阿部さんの間で学習交流が始まった。こうした活動がNHKの目に留まり、番組企画、テレビ出演へと事が運んだ。

「子供らを商売に使うつもりはないんですよ。テレビに出るのは、私にとって将来の消費者への種まき。農業の現場を少しでも知ってもらえれば、彼らのコメに対する考え方も変ってくると思う」 放送を見た小学生からの質問メールが、1日に40数件寄せられることもある。鋭い指摘にうならされ、時には返信するのに深夜までかかると苦笑しつつ、阿部さんはかつての我が身をこう反省する。

 「農業の教育的機能と言っても、以前は自分の子にすら農業の話をちゃんとしてこなかったし、子供たちに何かを伝えられるだけの勉強もできていなかったんですよね」

 今や、よその土地を歩いていても、子供たちから「あっ、阿部さん?」と振り向かれることがあると言う。「いやあ、こわいですよ」と照れる表情からは優しさだけでなく、この取り組みに対する真剣さが伝わってくる。


就農を許されなかった青春時代

 宮城県登米郡南方町は、北上川や迫川など豊富な水源に恵まれ、古くからの稲作地帯として知られる。この地で、96年に法人化した(有)板倉農産は、阿部さんが専務、父善朗さんが社長を務める家族経営だ。自作地・借地・作業受託地を合わせた約23haで、ひとめぼれやササニシキなど全9品種を栽培し、収穫した米の全量を産直で売り切る。

 昨年の冷害を板倉農産がいかに克服したかについては、本誌(03年10月号特集)ですでに取り上げた。徹底した有機物循環と土壌条件の整備、水管理など、阿部さんいわく「農民の技術」を追求している。JAS有機の認証を取得し、阿部さん自身も検査員だが、商品にはあえて認証表示を入れてはいない。これは国の基準ではなく、己の基準でコメ作りをし、顧客の信頼を得たいという理念に基づく。

 阿部さんは決して順調なスタートを切ったわけではない。それどころか、専業農家の長男として生まれながら、幼い頃から両親に「後は継ぐな」と言われ、農業高校への進学すら許してもらえなかった。父善朗さんはどうやら、農業は自分の代限りと心に決めていたらしい。周囲では、いち早く機械化を進めていたこともあり、息子にほとんど農作業を手伝わせなかったという。

「気象条件や国の政策に振り回される農業は、大変な商売だと言いたかったんでしょう。でも、当時は反発した。親の言うことなんてまともに聞いてられないって思っていた」 いやいや普通高校に通った後、大学に行くのなら、農学部でもかまわないと父母に言われ、阿部さんはそれならばと、共通一次試験までは受けた。「でも、ちょっと待てよと。自分の周りに国立大の農学部出て百姓をやっている奴がいるかって考えて、途中で受験をやめちゃった」。

 親子ゲンカの末、「自分の人生だ」と、父母を押し切るように宮城県農業実践大学校に進んだ。「それまで農家の息子でありながら、自分の居場所はなかったわけですから、楽しかったな。2年間、寮からほとんど家に帰らなかった」。

 大学校を出た後は県の古川農業試験場に勤め、育種に携わる。その間、ひとめぼれと出会い、「このすごい品種を自分で栽培したい」という気持ちがますます募った。2年後、どうにか意志を認めてもらい、実家に戻ったが、「仮採用みたいな感じ」だった。

「実際には自分にやれる仕事はあまりないけど、親の田んぼに手をつけるのもイヤだから、自分で作って売るしかなかった」 阿部さんはとりあえず地域の仲間と作業受託グループを結成し、トラクタとプラウを購入して走り回った。収入を得ると、徐々に借地を増やし、農地を貸してくれるという地主がいれば、2泊3日の温泉旅行に招待した。

「農業委員会に呼び出しくらって、ふざけてんのかってしかられましたけどね。農業は情報戦ですから、地主さんから圃場の特徴や条件を聞き出す必要があったし、離農するのであれば、その理由をちゃんと教えてもらいたかった」 規模拡大に失敗し、借金に追われてやむをえず離農する地主から、「農地は買うもんでねえぞ。耕してはじめて財産になるんだ」と教えられた時、農業の本質と厳しさが少し分かったような気がしたという。


惨敗の年、父に頭を下げる

 93年、3haの借地を確保すると、阿部さんは単独で勝負をかけた。以前からこだわりたいと思っていた有機栽培で本格的にコメを作り、収穫分は特別栽培米制度を利用して消費者へ直販すると決めた。そのために仙台市のイベント会場などでチラシを配り歩き、139件の年間予約をとった。品種はニーズに配慮し、ササニシキを選んだ。

 言うまでもなく、大冷害の年である。収量は散々だった。反当たりよくて3俵。1俵しか採れない場所もあった。「当たり前ですよ。前段階の土作りもしないまま、いきなり農薬やめて、肥料だけ堆肥に切り換えても、いったん病気が出たら止めようがなかった」

 一方、父善朗さんは慣行栽培のまま、自作地7haで反当たり7俵を採った。決め手は、阿部さんが試験場から持ち帰ったひとめぼれの種籾だ。少しずつ増やしておいたのを、その年、善朗さんが全圃場に植えたところ、耐冷性に優れた特徴がものの見事に生かされた。

 「完敗どころじゃなかったですね。父はひとめぼれに挑戦して結果を出した。チャレンジすべきだった私がササニシキで守りに入ってしまったのに……」

 悔やんでも、後の祭りだった。秋から冬にかけて、色彩選別機にかければ、はじかれるようなササニシキをこたつの上に盛り、家族総出で手選別を続けた。しかも幸か不幸か、コメ・パニックが全国に広がる中、追加注文が殺到する。顧客数は一気に800件にまで増えてしまい、手元のコメはとうとう尽きた。

「ひとめぼれを分けて下さい」。仕方なく頭を下げた阿部さんに善朗さんが言った。「おめえ、買うのか。じゃあキャッシュでな」

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