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新・農業経営者ルポ

私はまだまだ経営努力が足りていない

国が許しても俺が許さない

 少年時代からパイロットになることが夢だった染野は、防衛大学校を受験した。高校時代までは進学校に通っていたが、結果は不合格。学費免除も含めて許された防大受験だった。父・要は2年制の茨城県立農業大学校に進むことを命じ、染野もそれに従うほかに道はなかった。この大学受験の失敗という挫折から染野の農業人生は始まった。

 一学年20名。全寮制の農業大学校に入学してみると、「俺は花栽培」「僕は果樹だ」と、すでに同級生たちは具体的な農業への夢を持っていた。目標もなく農業大学校に入った染野は取り残され、そこに居場所を見出せない自分に鬱々としていた。授業をサボり、夜一人で寮を抜け出すことも度々。そんな問題児・染野のために父の要も学校に呼び出しを受けた。農業大学校は出席日数不足のために同級生より卒業が1カ月遅れることになった。第二の挫折だった。

 そんな染野は、1980年に20歳で卒業すると、友人たちをまねて、「オヤジ、後継者育成資金を借りて園芸ハウスを作らせてくれよ。無利子で金借りられるんだ」と言ってみた。

 「バカ言え、国が金を出してくれて、そんなこと俺が許さネー」

 二の句を出せない要の言葉が、染野の現在を育てたとも言える。


群馬県で見つけた作業委託の仕事

 当時の染野家は、水田3ha、畑1haそれに50aほどにタバコを作る農家だった。冬は父と一緒に、運転手、解体屋、建築現場など様々な出稼ぎに出た。いろんな場所での様々な仕事から学ぶものも多かった。でも、あくまで親の手伝いでしかない自分の姿が情けなかった。同窓会などで目を輝かせてキウイ作りや花作りのことを語る同級生に会うと一人取り残されているような自分が悔しかった。挫折、そして取り残されている悔しさが染野を発奮させた。

 自作地だけで3haという水田は当としては規模の大きな農家であり、機械的にも作業請負をする余力もあった。機械好きの染野は農作業の請負で経営の発展を目指そうと思い立った。しかし、地元では行政や農協の指導と補助金で組織された凸凹水稲機械利用組合、○△機械利用組合といった作業請負組織が幅を利かせていた。それをリードしているのは父より年配の人々だ。染野が入り込む余地など無かった。

 転機は25歳。家の稲刈りは9月中には終わり、群馬県の館林にアルバイトに来ていた。まだ刈り取りの終わってない田がたくさんある。ここなら請負の仕事があるのでは……。請負先を紹介してもらうために館林の農協を訪ねた。でも、よそ者の染野に農作業を任せるなんてことは農協職員には思いもよらないことだったろう。それでも足繁く通ってくる染野に困り果て、ある時、組合長室に案内された。自分の祖父ほど年配の組合長が染野にこう言った。

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