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バブルに背を向け、生き方を模索した学生時代
遠藤は、本誌執筆者の一人である宮城大学大学院の大泉一貫教授とも因縁がある。仙台で農業とはまったく関係ないサラリーマンの家庭で育ち、1986年に東北大学農学部に入学。3年生で同大学の助教授だった大泉のゼミに入る。それが農業に関わるきっかけだった。卒業後は就職もせず、「大泉先生のかばん持ち」をしていたと遠藤は笑う。
大学の卒業年次は90年。まさにバブル真只中の好景気が遠藤の学生時代と重なっていた。望めば就職は公務員でも民間企業でも選り取りみどりだっただろう。
しかし、そんな世間の気分に馴染めなかった。浮かれ立つ世のなかで自らの居所を見いだせず、これからの人生に対しても目標を持てずにいた。進むべき道を模索しようと、休みには米国や中国などをバックパッカーとして歩き回った。海外で出会う同世代の若者たちの確固たる目標や、人生に対する意思を見聞きするにつけ、自分自身や日本人のひ弱さを痛感させられた。なかでも、北京で出会った中国人学生の言葉には大きな衝撃を受けた。
中国の学生は、エリートであっても(あるいはそうであればこそ)将来の勤め先は国家によって指定されてしまうと話していた。そんな中国の学生と「何のために学ぶのか?そして自分はこれから何をすべきなのか」という問いについて議論になった時のことである。遠藤が指摘した中国の国家や社会の問題を認めつつ、中国の学生は毅然としてこう言ったのだ。
「そんな国だからこそ国を変えるために自分は学び、そして国を変えていく」
以来、遠藤の耳の奥にはその中国人学生の言葉が残っていた。そして、中国を旅してから2カ月経った89年6月、北京で天安門事件が起きた。その様子は全世界に映像として流された。天安門広場で一人両手を広げて戦車に立ち向かう若者の姿は、世界の多くの人々に衝撃を与えたはずだ。遠藤が中国人学生と出会い、議論した場所は、今まさにテレビに映し出されている天安門広場。戦車の前に立つ青年があの時の学生とダブって見えた。目標も目的もなく、成り行きに任せて就職するという人生の選択肢は、もう遠藤にとってあり得なかった。
農業を外側から見つめ、生き方のヒントをつかむ
周囲の同級生たちが、早々と何社からも内定通知を受け取るなか、遠藤は就職試験を受けることさえしなかった。
卒業してからは、大泉が主催する農業経営者を対象にした「一貫塾」の事務局員となった。事務局員といえば聞こえはいいが、いわゆる「かばん持ち」、研究室の電話番や講演旅行の運転手である。
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遠藤健二 エンドウケンジ
(有)ストロベリーフィールズ
社長
1966年宮城県生まれ。農業コンサルタントを経て、98年、マレーシアに渡り農場を経営。99年に帰国し、妻の実家のある茨城県で(有)ストロベリーフィールズを設立。50aのハウスで「とちおとめ」「初恋の香り」などを栽培し、インターネットによる直販や、高級デパートなどのこだわりの販路を展開している。
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