ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

新・農業経営者ルポ

利根川の向こうに見たパプリカが描く未来

15年間のサラリーマン生活を経て、就農の道を選んだ林俊秀氏。かつて経済連で営農指導を務めた彼は、常に生産者の都合ではなく、利根川の向こうに暮らす消費者のための野菜づくりを意識してきた。そんな彼が長年の夢であった農家となり、自らの商材として選んだのは、当時まだ日本の食卓に浸透しているとは言えなかったパプリカ。後継者のいないバラ栽培のガラス温室を受け継いだ林氏は、一体どんな可能性をパプリカに見出したのだろうか。取材・文/小林彰一 撮影/小寺恵
 もともと国産だった野菜の多くが、後から入ってきた中国産などの輸入品に押されている中、逆に輸入品が切り拓いた市場を国産が追いかける現象が起きている。

 ジャンボピーマンとも呼ばれるパプリカがそうだ。そもそもダイエーがオランダから花と一緒に運んできたのが一般普及のきっかけだが、1993年の初輸入以来、業務用を中心に右肩上がりの成長を続け、今や全国で2万4000tものマーケットを持つに至っている。

 現在は韓国産を中心としたマーケットが形成されているが、これだけ規模が大きくなってくると、国産がほしいという需要も一定の割合で芽生えてくる。そこへJGAP認証やトレーサビリティの充実といった国産ならではの付加価値で攻勢をかけているのが、茨城県水戸市の(有)テディである。

 代表取締役を務める林俊秀氏は、実家が非農家の元サラリーマン。大学を卒業後、茨城県経済連(現・JA全農いばらき)に入ったが、15年間の勤務の中で就農の夢を忘れることはなかった。そしてついに念願の生産者となった時、農家としての人生を賭ける商材に選んだのがパプリカだったのである。

 一家4人を支えていくだけの安定した職を投げ打ってまで、始めた農業。当時一般需要がつき始めていたとはいえ、野菜流通関係者にさえ「イタメシブームに乗った一過性の需要」と見限られていたパプリカをあえて選んだのは一体なぜなのだろうか?

 博打とも思える林氏の行動は、長年の情報収集に裏打ちされた自信があったせいもあるが、何より揺るぎない信念が導いたものだった。

 それは利根川の手前(産地である茨城県)ではなく、川の向こう側(消費地である東京)の立場でものを考えること。つまり生産する野菜を自分の都合で決めるのではなく、マーケットが求めるものを供給するという、当然ともいえる発想だった。

関連記事

powered by weblio