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新・農業経営者ルポ

成田からアジアの食卓へ 海外から始まった宅配事業

 デコポンの資本金は6005万円。そのなかには、議決権は持たなくてもデコポンを応援したいと言ってくれる善意の市民(消費者)の出資も含まれている。アグリビジネス投資育成㈱からの出資も受けた。自己資本が増え、理想とする新事業への取り組みも容易になった。

 でも、ここに至る道は容易なものではなかった。


支払い繰り延べを許した仲間たちの共感

 30歳の誕生日に普及員を辞めた井尻は、約1年間、茨城県にあった有機農産物流通グループで修行をさせてもらった。そこで出会った千葉県の有機農産物生産者の野菜を、千葉市や習志野市などの住宅街で引き売りする仕事を、井尻の個人事業として始めた。

 生産者は、現在の地名で匝瑳市、山武市、香取市など千葉県北東部に点在する8人。そのうちのひとりから、庭先に寝起きする場所を兼ねた事務所を提供してもらった。約1年の間に、個人のお客さんを相手にした引き売りに加えて、有機農産物を専門に扱う小売業者を取引先にすることができた。

 そして93年4月、井尻は3人の生産者とともに(有)デコポンを設立する。集荷をする3地域の代表的生産者に出資を求め、役員になってもらったのだ。出荷してくれる生産者の数も、やがて20人に増えた。売上は最初の年が7000万円。2年目が2億円、3年目が3億円、そして5年目には取引先も増えて4億5000万円にまでなった。

 しかし、それからが停滞の時代だった。売上は上がっても、デコポンの経営は火の車だった。配当どころか、仕入れた野菜の代金の精算に4カ月も5カ月もかかることさえあった。末締め末払いが当たり前にできるようになったのは、デコポンが発足して10年ほど経ってからのこと。価格はともかく、市場に出せば3日後には現金を手にすることのできる人々が、黙ってそれを許してくれたのである。いくら井尻を応援してやろうという人々であったにしても限度がある。井尻も「きっとみんな、爆発寸前だったと思いますよ」と苦笑する。

 そんな人々の応援があって、信金や公庫から融資を受け、現在の場所に倉庫を持つことができてから、デコポンの経営は安定していった。支払いを待ってくれた人々こそがデコポンを作り、井尻を育てたのだ。

 当時の井尻は、集荷から配達までほとんどひとりで行なっていた。夏場には千葉県内だけでなく、群馬県の山間地からも集荷するため、文字通り寝る暇などない。居眠り運転が当たり前のような毎日だった。高速道路の側道に車をぶつけながら、そのまま寝入ってしまうようなこともあり、「よく死ななかったものですよ」と本人もあきれながら振り返る。

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