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木内博一の和のマネジメントと郷の精神

“自給自足”希望者の勘違い

 もう一つ彼らから感じるのは、投資という考えが希薄なことだ。生身の体一つで、農業ができると純粋に考えている。和郷園の組合生産者の場合、平均的な売上3000万円に達し、再生産性を維持できるようになるまでに、5000万円以上は投資している。そう伝えると絶句する。「数百万円用意しました」では話にならない。何も農業への規制が新規参入を阻んでいるわけではない。農業は投資とノウハウの塊なのだ。加えて、その回収と習得に時間と忍耐がかかる。生活と事業の区分けがつかない人には難しいだけだ(区別がつかなくても継続できるのが、家業としての資産とノウハウを持つ農家ということになる)。

 「人手不足の農業が余った雇用の受け皿になれ」との風潮は論外だ。雇用がないからではない。われわれ農業事業者が人材を生かせ、継続できる仕組みをつくれた分だけ雇用が生まれているのだ。その意味で、農業はほかの産業と変わらない。


文系の価値、理系の価値

 国家レベルでも、彼らに似た幼児性に危うさを感じるときがある。「日本はもっと自給自足すべき」という論調が増え、官僚が先導している。日本は天然資源を輸入し、モノづくりをして世界中の人に使ってもらって成り立っている。輸入に依存し、輸出に依存しているのだ。相互扶助の精神が国際的に共有されているからこそ、日本は世界で役割がある。それを自給という言説で何を果たしていけるのか。

 個人の自給、国家の自給を語る人の共通点は、誤解を恐れずにいえば、高学歴の文系出身者だ。私の理解では、文系の価値とは「道徳と文学と歴史」に精通していることだ。人の心を理解し、人が歩んできた道に通じ、これから人が歩む道と心構えを指し示す。現在の状況だけで物事を捉えず、世の連続性から高度な総合判断をし、社会に貢献できる。ゆえに、文系の最高学歴者には社会から役割が与えられ、組織でそれ相応の地位を得る。しかし実態はどうか。自給自足希望者は思考停止し、自分さえよければいいという幻想に逃げる。官僚は民間から求められる判断を保留することで、自分の仕事を確保しようとする。

 役割放棄、前例主義、縄張り意識では、社会の活力を奪う存在でしかない。最高の学力がそのように消耗される国と国民は不幸だ。

 これからの日本は理系がもっと活躍できる社会が理想だと思う。日本人が築いてきた技術立国と相互扶助の発展を支えるために。理系出身者の強みは、ある理論にもとづき横断的に物事を判断できることだ。未曾有の危機の時代、前例がないことがほとんどだ。そこで仮説を立て、持ちえる知見や見識を拠りどころに、未来に向けて確実な成果を上げていける人々が必要だ。

 農業の世界も、理系出身者の深いコミットメントを歓迎したい。

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