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新・農業経営者ルポ

オレたち、第一次産業のワンダーランドを作りたい

 日本の生産者たちには疎かったマーケティング能力を「グリーブ」は啓発する。売り場には新規参入商品を迎え入れる用意もあるが、それは、それぞれの棚に君臨する勝ち残った商品への挑戦状だ。低かったはずの垣根が、いまや幾重にも高くなっている。しかし垣根をそこまで高くしたのは、紛れもなく消費者だった。


農業青年会議会長に就任、新風を巻き起こす

 土いじりに嫌悪感があった藤代氏には、家業を継ぐ気は毛頭なかった。園芸高校に進学したのも、農業に対する関心があったからではなく、中学時代の成績を鑑みた結果だ。要するに、選択肢がそれしかなかったのである。卒業後の仕事も長くは続かなかった。調理師学校になんとなく通い、精肉店、土砂の運搬、高速道路の管理など、いずれも中途半端なまま職場を去っている。あげくは青年団の活動を通じて知り合った光枝さんの妊娠が判明し、なかば強引な形で結婚した。

 そんな彼が農業に目覚めたのは86年、26歳のときに父親の培勇さんが胃がんで他界してからだった。一家の柱を失い、定職もない。自然の流れが、藤代家の長男の背中を押した。印旛村の農業青年会議の活動に参加するようになり、土木作業や畑作業に関わった。すると、かつては地元でも有名だった悪童に対する視線が、次第に変化していったのだ。

 藤代氏が笑いながら振り返る。

「そこで信用を作れたのは、女房と子どもを田んぼへ連れて行き、一緒に作業したことだと思うんですよ。女房の親たちも手伝いに来てくれたりして、随分賑やかに仕事をしてるわけです。こういう風景っていうのは、当時の農村でも珍しくってね、“これからは家族一丸となって仕事しますよ”っていうアピールにもなる。そしたらアマチュアの写真家がその風景を撮影しに来て、どこかに掲載されたりするんだよね。これがまた話題を呼んで、近所の爺ちゃんや婆ちゃんが『偉いね』って声をかけてくれるようになったんです」 人は褒められれば調子に乗るものだ。何をやってもうまくいかず、周囲から白い目で見られていた男にはなおさらだった。

 93年、あれほど距離を置いていた農業に目標を見つけようとしていた藤代氏に、再びチャンスが訪れる。崩壊寸前の状況に陥っていた農業青年会議の会長から、後継者の任をまかされたのだ。そのまま放っておけば、いずれは潰れる運命にあった組織だ。楽天家の彼は、その依頼を気軽に引き受けてしまう。

「“長”と名のつく仕事に座ったのは初めてだったんですが、何かやらなきゃいけないっていうんで、仕方なくアクションを起こすんです。ところが、それがまた評判になるわけです。ただいざ始めてみると、次から次へと疑問が浮かぶ。農村社会の中で何かを始めるっていうことは、基本的に無謀な行為なんですね。だけど農業に興味がなかったオレには、“知らない”という強みがあった。今だったら、とてもできませんよ」

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