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新・農業経営者ルポ

サッカー少年が目指した農業経営者の道と彼を励ます家族の力

 もっと古い世代なら、長男であれば親に農業を継げと言われ、自らの進路について葛藤するのが普通かもしれない。でも、60年代後半以降に生まれた世代で、それも両親が兼業農家だったという農業経営者は、以前の世代のような葛藤はしていないものだ。自分が農家の生まれであることすら自覚していなかったという人も多い。

 彼らは、農家に生まれたから農家という暮らし方を継いだのではなく、自ら農業を職業として選び、その経営者になることを目指したのだ。彼らは、農家を継いだというより創業者というべき人々なのだ。どんな仕事でも、起業してその事業を成り立たせていける者はほんのひと握りである。ほとんどは失敗するのが現実だ。農業経営においても、それは同じである。農家の子供が農業を継がないのは、農業が儲からないからだと農業関係者は言うが、それはまったくの間違いだ。現代の日本で農業経営を行なうことは、誰にでもできることではないのだ。始めてみても廃業する人が多いのも、当然というべきなのだ。自らのなかにある動機や強い意志、そして夢がなければ続かない。困難は当然のことなのだから、誰かに言われたから、あるいは嫌でできるものではないのだ。それに加えて家族や支援者たちの励ましや好意に勇気付けられてこそ、彼は困難を越えていく。また、先代が作った助走路があったとしても、変化する時代環境のなかで過去を超えた事業として成立、継続させていくことは、創業すること以上に困難なことでもある。

 農業を始めて9年目。廣島の困難は続いているが、やっと未来が見えてきた。筆者が彼を訪ねたのは、そんなタイミングだったようだ。そこで彼を愛し励ます家族を見た。


図らずも兼業になった両親

 廣島の祖父は、愛知県安城にあった農業講習所でトマト栽培を学び、トマトで家を建てたといわれるような農家だった。しかし、働きすぎもあって体を壊し、家族を養うために父の準生(70歳)は国鉄職員になった。母の紀子(68歳)も国立病院の看護士だった。準生の時代も3haの水田は作っていたが、文字通りの兼業農家だった。それも二人とも夜勤があり、県内とはいえ自宅からでは通えない転勤もあった。両親に代わって廣島の面倒を見てきたのは祖母のハツヱ(92歳)だったと紀子は言う。

 夢だったプロサッカー選手になった廣島。少年時代からサッカーに夢中になり、進学や就職もすべてサッカーを中心に考えてきた。準生と紀子は、自分たちには何の手助けもできない息子の人生の選択にもどかしさを感じながら、自由に自らの生き方を選ぼうとしている姿を黙って見つめてきた。準生と紀子は廣島をこう評する。 

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