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新・農業経営者ルポ

「私は楽になりたい」という生き方が創る農業経営

20年間、システムエンジニアとして第一線を駆け抜け、仕事に趣味に思いっきりの人生を歩んできた野口忠司。そんな生き方が招来させた突然の病。そのリハビリを通した帰農が野口の心を癒すと共に、時代が求める農業の新しい経営の形に気付く。約1・6haの水田と約10aのブルーベリー園、そして直売野菜を作る畑が約20a。経営はまだ発展途上だが、野口には確実に農業経営の未来が見えてきた。取材・文/昆吉則 撮影/土井学

仕事に趣味に思いきりの人生

 1983年から20年間、野口忠司(46歳)はシステムエンジニアとして働いてきた。情報通信技術の導入から飛躍的発展が進行する「IT革命」の時代と重なっていた。

 パソコンがまだマイコンと呼ばれ、今とは比較もできないほど素朴な技術だった高校生の時代に、野口はコンピュータに魅せられた。高校卒業後は迷わず専門学校に進学し、願い通りにシステムエンジニアとして職を得た。

 あらゆる産業分野にコンピュータが導入されていく時代だった。様々な会社でその事業内容や業務管理方法を聞き、それをコンピュータの言語に置き換えて改善していく。業務内容を解析し、それを再構成していく仕事は野口の性格にも合い、文字通り面白がって徹夜もいとわず仕事をした。

 親とは別居していたが、春や秋の農繁期には家の農作業も手伝った。それは心地よい息抜きだった。父の忠吉(74歳)は大工でもある。野口家では兼業は当たり前の暮らしの形だった。

 また、野口は農家に産まれたからというわけでもなく、子供時代から園芸が趣味だった。バラや様々な果樹栽培。インターネットが登場する前のパソコン通信の時代に「園芸」をテーマとするサーバーの管理人も務めていた。仕事の合間に趣味の園芸をして、さらにパソコン通信を通じて仲間の相談にも答える。妻の郁子と出会ったのもその縁からだ。郁子もシステムエンジニアであり、園芸が趣味だった。

 手作りジャム。そのほかにも仕事だけではないコンピュータマニア、カメラ、父親譲りの大工仕事、読書や映画、コンサート通い。アイドル時代からスクラップを作るほどの石野真子の熱烈ファン。

 ときには寝る暇もなく仕事をし、多彩な趣味も人付き合いも大事にする毎日。でも、野口にとってそれは苦痛どころか、かけがえのない毎日だった。100%ではなく120%で仕事をすることもプロの職業人として当然であるとも思っていたし、仕事を始めるとそれに夢中になってしまう野口だった。そんな日々であればこそ、野口は自身の知的好奇心が刺激されるのであり、心を豊かに保てていられるのだと思っていた。社内外での信頼も大きく、管理者として多くの仕事を切り盛りするようになっていった。

 そんな野口に異変が起こったのは2001年の11月だった。それは突然やってきた。

何の前触れもなく心臓が苦しくなり、倒れた。病院に担ぎ込まれた。心臓といわず、全身の臓器が悲鳴を上げているかのような体の不調だった。 医師は型どおりの検査をした後に野口に告げた。臓器それ自体に原因があるわけではない。彼の臓器が、心と体のバランスを崩している野口に警告を発しているというのだった。

何の不満もなく、むしろ望んで続けてきた自分自身の仕事や生き方。それが精神というより命の危機をもたらしている。そう説明する医師の診断を野口はにわかに信じられなかった。 しかし、体の不調は続き、会社を休まざるを得なかった。1カ月の病欠の後も体調は回復せず、そのまま休職扱いとなった。

 一時の急性の症状は治まり、寝込むまではなくなったが、体は思うに任せない。そんな日々を暮らしながら、野口も内面にある苦痛を少しずつ自覚するようになっていく。体調の回復は一進一退であったが、それは心の内にある不具合に気付いていく毎日だった。それまでの人生で経験したことのない日々だった。野口はその当時を振り返って「身をすくめて生きていた」と言う。

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