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新・農業経営者ルポ

「私は楽になりたい」という生き方が創る農業経営

 すでに、国民の1日1人当たりの消費カロリーは、減反政策の始まった1971年をピークに現在に至るまで減少し続けている。その時代を境に日本の社会が欠乏から過剰の社会へと転換した。飢えという「欠乏の病理」から開放された日本で、より解決が困難な「過剰の病理」が支配する時代に我われは生きている。この文明の転換ともいうべき変化を自覚することが、農業経営者としては第一の条件になっているのではないだろうか。

 であればこそ野口を農業経営者として紹介したいのだ。農家としての営みを体現することを通した現代の農業経営。それは、過剰の社会病理に苦しむ現代社会や現代人が必要とするもうひとつの農業の姿なのである。

 人は、農家を農業の生産者、そのほかの人々を消費者と呼ぶ。しかし、それも欠乏の社会であればこそ農業を“作物生産業”としてしか認識できなかったゆえのことだ。農業はもとより“物質循環業”であり、さらに、人々は農業を通して触れる自然や土、あるいはそこで生かされてきた人々の暮らしそのものに癒されてきた。過剰の社会病理が広がる現代であればこそ、人々は改めてお天道様の下で生きるという農業の意味に気付くようになっている。

 そろそろ「生産者 消費者」という理解とは違う農業と農家の意味を語る言葉も必要になっているのではないか。農家も消費者もすべからく_お天道様の消費者_であるという自覚だ。そこで農家が時代に必要とされる新たな役割とは、経済的に、楽しく、豊かに、そして永続性のある形でお天道様の消費を演出し、自らそれを演じることではないだろうか。

 本誌がいう「ファーミング・エンタテインメント」の可能性は大きく、今後、ダイナミックなビジネスとして展開していくだろう。その一方で、大きな事業展開があればこそ、生身の人々の暮らしが見える小さな生業的な営みこそに人々は共感する。


花囲夢(カイム)

 野口は2002年の春から療養を兼ねて実家の農業を少しずつ始め、その年の夏には実家に住むようになる。

 その間、本人だけでなく金融機関のシステム開発を専門としてきた郁子も仕事を失う。本人の体調不良だけでなく夫婦揃っての失業。親族の病気や不幸が続くなど、野口の30代最後の年は不運続きだった。でも、世間的に見ればそんな不運が野口を新しい生き方へ導くバネになった。

 そして、非農家出身の郁子は、心と体を壊した夫を言葉少なにいたわりつつ、野口と共に生きることを無理せず楽しめる人なのであろう。それが彼らの人生の選択を可能にしているのかもしれない。

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