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【北海道長沼発ヒール・ミヤイの憎まれ口通信】
海外研修イッたふり
- 西南農場 代表取締役 宮井能雅
- 第17回 2009年07月01日
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せっかくの機会を得ても身に付かないようでは……
国際交流。良い響きの言葉だ。その国際交流が体験可能というコピーが入ったポスターが地元JAの正面玄関にあった。その名はズバリ海外農業研修。社団法人国際農業者交流協会が窓口で、主に米国とヨーロッパに1年以上の研修を行なう事業である。このような生産者が国際交流する機会を作り推進する取り組みに、JA組合員をはじめとして役員・職員たちの前向きな姿勢に対して、なぜか日本かぶれゆえにこの事業を否定するものは存在しない(多分)。
私も1978年、20歳の時に憧れの米国に長期滞在できるこの事業に乗っかり、金髪・ブルーアイとの国際交流を夢見ていたが、北海道が冬で暇であるなどの事情で、夏のオーストラリアに行くことになった。
現在の自分を作り上げた10%ぐらいは、彼ら彼女たちから学んだものであると言っても過言でない。ただホストファミリーをはじめ、みんな飲兵衛のグッドネイチャーの持ち主であったものの、経営に関しては私のイメージからは少し違っていた。米国より経営規模が大きく、デカい農業機械を使っているから、オーストラリアはさぞかし世界一の農業国だと思っていた。しかし、旧宗主国の農業の悪影響を受けた教科書通りに、物理的にフェンスが存在する“囲い込み”農業を行なっていた。
また、みんなV8のデカイ車に乗っていると思っていたが、実際には違っていた。オーストラリアでは、当時から日本車、それも三菱車、スバル車が多かった。理由を聞くと「我々のスピットフアイヤーと互角に戦う三菱のZERO(零戦)は素晴らしかった。だからその車も素晴らしい」とのこと。零戦は元々、中島飛行機(後の富士重工)が設計、製造したが、生産が間に合わず、三菱でも作られたと聞く。4輪駆動車はトヨタのランクルが多く、当時の日本車の評価は日本と海外では明らかに違っていた。私が日本人と分かると「オレは日本機を何機も落とした、何人殺した」と平気で言う。よく聞くと憎しみからだけではなく、「アジアの小国があそこまでアングロ・サクソンとよく戦った」と、一種の尊敬の念も込められた言葉であった。「もはや戦後ではない」の言葉を、戦勝国で否定された思いだった。
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宮井能雅 ミヤイヨシマサ
西南農場
代表取締役
1958年3月、北海道長沼町生まれ。現在、同地で水田110haに麦50ha、大豆60haを作付けする。大学を1カ月で中退後、農業を継ぐ。子供時代から米国の農業に憧れ、後年、オーストラリアや米国での農業体験を通して、その思いをさらに強めていく。機械施設のほとんどは、米国のジョンディア代理店から直接購入。また、遺伝子組み換え大豆の栽培を自ら明かしたことで、反対派の批判の対象になっている。年商約1億円。
北海道長沼発ヒール宮井の憎まれ口通信
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