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編集長インタビュー

何かを加えるのではなく、過去を捨ててこそ実現する経営革新

合従連衡の証券界において、創業から90年以上も独立を堅持し、斬新な顧客サービスの開発で飛躍的な成長を遂げた松井証券。四代目社長の松井道夫氏は、異業種出身だからこその発想で、慣習にとらわれがちな証券界に新風を巻き起こし続けている。変化が著しいこの時代に、経営者は何を残し、何を捨てるべきなのか。旧来のやり方を否定し、あるいは自ら作ったものさえ破壊する松井氏に、大胆な社内改革や顧客中心主義の取り組みを聞いた。

「おやんなさいよ、でもつまんないよ」

昆吉則(本誌編集長) 松井社長は、もともと日本郵船(株)で海運のお仕事をされていたとお聞きしています。それが娘婿として家業の証券会社を受け継ぐことになり、従来あったものを変革しながら、新たな挑戦を続けてこられました。農業の世界でも、世代交代していく上でいかにして残すべきものを残し、清算すべきものを清算していくかが課題になっています。今日は松井社長が異業種から松井証券に入ってこられた経緯や、これまでの経営改革のお話をうかがいたいと思います。

松井道夫(松井証券(株)代表取締役社長) 松井証券の後継ぎになった経緯は、成り行きなんですよ(笑)。家内が二代目社長のひとり娘というのは事実ですが、松井証券を継ぐか継がないかは、結婚後に降って湧いた話です。僕自身、株のことなんてわかりませんでしたからね。頼まれたわけでもなく、自分からやらせてくださいと申し出たのですが、そのときに岳父が言ったのが、「おやんなさいよ、でもつまんないよ」でした。

昆 俺はお前を求めているわけじゃないよって言われたんですね。

松井 というか、大株主である岳父としては、社長なんて誰かを雇って、もしダメだったらクビにすればいいだけじゃないかと、それくらい割り切った考えだったのでしょうね。ところが当時30代の僕は普通は継ぐものだろうと勝手に思い込んでいた。入社したのは1987年でしたけど、まさにバブルのピークで、もう天から金が降ってくるような状況。日本郵船での11年間のサラリーマン生活では何をやっても赤字の苦しい経験をしたのに、同じ日本の空の下でこんな違いがあっていいのかと思いましたね。こんなのお天道様が許してくれるわけがないと。そうこうするうちに案の定バブルが弾けて、証券大不況が始まりました。継ぐために入ったのにこのまま潰れたんじゃたまりませんから、そこからいろいろな社内改革を始めたわけです。

昆 当時のスタッフは何人くらい?

松井 150人くらいです。そのうちの50人以上が歩合外務員ですね。歩合というのは社員外営業マンで、一人ひとりが自由業でもあるんです。

昆 契約社員ということですか?

松井 ええ。給料は歩合制で、取引手数料の4割が外務員の収入になります。バブル当時で年収5000万円くらいの外務員は結構いましたから、ひとりで年間1億数千万円を稼いでいる計算です。そういう世界では外務員が王様なんですよ。だから僕が営業体制の見直しなどの社内改革をやろうとしたとき、外務員の猛反発に遭いました。誰に飯食わせてもらっているのかと言われて。そういう僕の取り組みに対して、岳父は何も言いませんでしたね。

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