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新・農業経営者ルポ

地域を味方につける、サービス業としての農業

意識の変革をもたらしたライスセンターの導入

 新國さんは農家の次男として生まれた。子どもの頃から両親や近隣の農家の手伝いをする中で、農業に関心を持ち、中学生の時点で就農を決意。進学意思はあったが、家庭の事情もあって高校卒業後、就農した。

 新國家は元々地主だったが、戦後の農地改革によって、残された田圃はわずか3ha程度になってしまった。したがって、新國さんが就農した頃の農業経営は、この新鶴の地によくある形の家族経営であった。

 「コメのほかに、サヤインゲンを作っていましたが、それだけだと栽培技術が向上しないので、キュウリを作るようになりました。すぐ収量も10t採れるようになったんですが、若さを過信したんでしょう、私だけでなく、家内も体調を崩したりしたんですよ。それで、方向転換を模索し始めました。キュウリをやめて夏秋キクに代えたり、繁殖和牛を飼育したりしていました」

 1981年、新鶴村は圃場整備事業に着手する。経営という意識に徐々にではあるが、目覚め始めていた新國さんは、この圃場整備事業に伴って稲作の作業効率化が図れる可能性に気付く。85年には、国から新農業構造改善事業の予算を導入し、ライスセンターを建設する。実はこのライスセンターを建築したことこそが、グリーンサービス設立にいたる原点だった。その道程を聞こう。

 「この年は将来的に米価が下落していくことが見通せた年でした。本当はコメだけで生計を立てたいけれど、今までのやり方は通用しないことがわかってしまった。そこで、同じような将来への不安を持っていた近隣の2軒の農家と話し合い、桧の目神殿機械利用組合を設立します。そして、コンバインやトラクターを共同購入し、ライスセンターも共同で建設することにしました」

 ライスセンターの総工費は3000万円。そのうち1200万円は各農家が負担しなければならなかった。そのため、個別に所有していた農機をすべて下取りに出し、初期費用の一部を捻出したが、ライスセンターを立ち上げた後になって、いろいろな問題が見えてきた。

 「ライスセンターは20haの処理能力がありましたが、3軒の農家の耕地は8ha、作業受託を合わせても4haで合計12haしかなく、8ha分の能力がムダになる。それに、借金までしてライスセンターを作ったはいいけれど、跡継ぎがいなければ、設備がムダになってしまう……。でも、『待てよ、ボクみたいに農業をやってみたい人だっているよな』とも思ったのです。やりたい人がいるならば、育てながらいずれ経営を任せる“受け皿”にすればいいし、だったら法人化して企業的な経営をするしかない、という結論に達しました」

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