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新・農業経営者ルポ

上野満という希有の農業指導者の子、孫として受け継ぐ誇りと夢と葛藤

農民は貧しく、日本人が飢えに怯えていた時代に上野満という農村リーダーがいた。満は、満州開拓団の団長を経て徴兵、敗戦を迎え、その後シベリアに抑留される。終戦2年後の1947年に帰国すると故郷の福岡には戻らず、現在の茨城県稲敷市市崎に15戸の農家による協同農場、新平須協同農場を組織する。満州開拓団時代の満を尊敬し、その協同農業の理論に心酔する若者たちが集まっての協同農場の発足だった。70年代後半に協同農場は崩壊したが、満の人間としての理想と誇りは長男の(75歳)、孫の(46歳)に受け継がれている。 文/昆吉則、写真/瀧島敦志
上野裕は、農事組合法人新利根協同農学塾農場の代表理事を務める。新利根協同農学塾農場はその名の通り、新平須協同農場を組織したとき、その思想を若者に伝えるための満の私塾として始まったものである。現在は裕が茨城県では珍しい放牧酪農で実質的に個人で経営している。
自作地は農学塾が所有する4・7haだが、協同農場の離農者の農地だけでもやがては30ha規模の放牧が可能になるだろう。そこで、牛に無理させるのではなく、土と草を作り、乳量は減っても面積当たりに飼える牛の数で経営を考える放牧酪農と、牧場を現代人の癒しの場となるような事業を異業種の人々との協力で作っていけないかと考えている。現在、成牛33頭、育成が10頭程度。
かつては1万を目指すような購入飼料中心の経営を目指したが、飼料の高騰に伴って経営は危機的状況に陥り、2005年から放牧酪農に転換する。それにより乳量は大幅に減ったが、経費が下がり、牛の障害も大幅に減って経営危機を脱した。牛はまだホルスタイン中心だが、乳量は少なくても放牧に向き、ホルスタインでなら1頭1ha必要な放牧地が1haで2頭飼えるジャージー種中心に変えていこうとしている。乳量は4000くらいに減ったとしても経費が大幅に少なくなることでむしろ経営は改善される。しかも、ジャージーは暑い関東の夏にも強い。体は小さく、乳量も少ないが、放牧向きで肉がうまい。しかし、ジャージーの牛を購入するのは高くつくため、種付けを繰り返してジャージー種の血を少しずつ濃くする牛の改良をしている。また、ジャージーは体も小さく、肉も一般市場では値が付かない。それでも、ジャージーによる放牧酪農という物語性を作り、ジャージーの優位性を謳えたら面白い酪農経営ができるはずだと裕は考えている。

上野満の思想

この記事を書くために上野満の著書と満の妻・ただ江の手記を読み、達の話を聞いた。すると達が満に、そして達と裕の間にもさまざまな葛藤や批判があることを知った。しかし、話を聞いていると、協同農場という組織論はともかくも達と裕の語る理想と生きる誇りとは満のそれを受け継いでいると感じる。
満は、福岡県の中農の三男として生まれ、長男は家を継ぐべく農学校を卒業したが、家出して東京の大学に進んでいた。大学に進学することはいまでは想像できないような文字通りのエリートコースだった。成績の良かった満もそれが許される立場にあったが、それを拒否して高等小学校を卒業すると独学で学びながら、家の農業を手伝う道を選んだ。兄に限らず勉学に優れた農家の子どもたちが立身出世を願ってエリートの道を選び、親に山を売らせてその学資を工面する姿を見て、それは農民を打ち捨てて裏切ることではないかと思ったのだ。また、第一次世界大戦の好景気に沸く当時、農村でも誰もが一銭、二銭の利を求めてなりふり構わぬ金儲けに走っていた。満はそんな農民の姿を見ることも耐えられなかった。

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