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新・農業経営者ルポ

上野満という希有の農業指導者の子、孫として受け継ぐ誇りと夢と葛藤



上野達の実践

満の長男である達は父親の生き方を尊敬し、影響を受けつつも批判する。満は、その著書の中で農業の外にいる者が農業を支配することを何度も手厳しく批判しているが、達が物心ついたころに満は家にも農場にもほとんどおらず、県内に限らず全国を飛び回り、農水省や県行政、農業団体の役職を果たしていた。それは新時代の農村リーダーを目指した満にとって本望だったかもしれないが、農作業や農場経営の現場にいない父のあり様に達は反発していた。
「親父は評論家。農業協同経営教の教祖で思想家かもしれないが、農家ではなかった」
満は達にも自分と同じような農村指導者になることを望んでいたのだろうと達は言うが、達は酪農学園大学に進むと各地の酪農家を訪ね歩き、あるときは居ついて酪農経営を学んだ。現場の実践家としての自らの人生を選んだ。60年に大学を卒業して家に戻った。最初の1年間は協同農場で働いたが、翌年になると満に農学塾農場の仕事をしてくれないかと頼まれた。日本の社会が戦後の貧しさから少しずつ解放されていくと、農学塾に集まる若者も変化し始めていた。人の出入りが激しく、農学塾農場の経営が苦しくなっていたのだ。達は喜んでそれを受け入れた。当時、農学塾農場にいた2人の仲間とともに、農場経営に精を出し、すぐそばの自宅には戻らず、塾の仲間と共同生活をして満を避けていた。強烈な個性を持つ父親から自由になりたかったのだろう。稲作と養豚と酪農の農学塾農場で達は酪農を担当した。
そう話す達だが、大学の恩師に繰り返し聞かされていたという「農民の不幸とは無知であり、農業教育とは農民の無知からの解放である」という言葉。そして当時、福澤諭吉の本で読んだ、国の独立とは一人ひとりの個人の独立がなければ真の独立ではなく、人間の独立は思想だけでなく経済的独立が必要である、という考え方に影響を受けていた。農学塾農場の経営で父親から経済的に独立しようと考えたのだ。
酪農学園時代と農学塾農場での経験がその後の達の人生を決定づけた。しかし、満を避けながらも恩師と福澤の言葉とは満が考え続けたことそのものだったのではないだろうか。
協同農場の崩壊とともに農学塾農場もやがて達が個人で担うようになり、酪農専門の牧場経営に取り組んだ。そこで、最初は10頭規模から始まり、やがて30頭レベルまで頭数を増やしていった。それもあくまで自給飼料の品質向上と牛の改良によって年間7000、8産、5万を達成するようになった。それは適正な糞尿の還元とプラウでの天地返し、デントコーンや牧草の輪作などによって土壌改良を進めた結果だったという。さらに、良質な素牛を導入することはできなくとも毎年、種付けで牛を改良し、市場に出すまでもなく、達が生ませた子牛を人が牧場を訪ねて買ってくれるような牛の改良も進んだ。

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