ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

江刺の稲

今、上野満の著書を読み返す価値

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第225回 2015年01月30日

  • この記事をPDFで読む
    • 無料会員
    • ゴールド
    • 雑誌購読
    • プラチナ
今月号の農業経営者ルポの原稿を書くために故上野満氏の著作と満氏の妻・ただ江さんが残した手記を上野裕氏に借りて読み、その生き様と理想の高さに感銘を受けた。繰り返しになるかもしれないが、改めて強調しておきたいことがある。
上野満氏は、戦後に協働農場という農業・農村経営の確立を目指した農村指導者である。満氏の協働経営の思想は戦後の農水官僚たちに多くの影響を与え、一時期の官僚たちが考えた「一村一農場」のひな形となった。またそれは、現在も農業政策の一つの柱になっている集落営農につながっている。
ご存じのとおり本誌は経営者無き集落営農を批判することで農業界からパージされている。そんな筆者が上野氏の著作を読み、同氏が協働農場設立を目指した当時の農村・農民と戦前・戦後の時代状況の中での満氏の思想に感銘を受けた。
その時代であればこその満氏の農本主義。当時の農民の貧しく、無知であるがゆえの不幸。第一次大戦の好景気に沸く時代に農民たちが僅かな利を求めて狂奔する姿。それによって伝統的な農村の暮らしと文化を農民自らが壊していく。その様を見て若い理想主義者の満氏が家の農業を手伝いながら独学し、思索する時代。そして武者小路実篤が作った新しき村に共感しそこに入るが、やがて新しき村の暮らしに失望する。最低限の労働を果たせば食の不安もなく自由に芸術、文化を語れる生き方とは、籠の鳥の満足に過ぎない。実篤の資産を食い潰すだけで個人が経済的自立を伴わず、自由な競争も存在しない新しき村は人を幸せにするものではないと思うようになる。
その後5年間、埼玉で晴耕雨読と思索の日々を過ごし、満州での開拓体験とシベリア抑留を経て満氏の協働農場の思想は形成されていく。そしてそれが実現するのは、まだ人々が貧しく平等思想に燃える戦後日本においてだった。

関連記事

powered by weblio