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北海道馬鈴薯でん粉物語

北の大地に馬鈴薯が根づくまで


刃物鍛冶屋が次第に機械鍛冶屋に転身しはじめており、洋式農業への黎明期である。この時期に第一次大戦のでん粉景気や豆景気に便乗し、一気に洋式農業を取り込むことになる。

北海道農業の基盤は
馬鈴薯がつくった

著名な農機具製作所の多くは大正5~6年(1916~17)に創業しており、ここが本格的な洋式農業の幕開けといえよう。馬鈴薯でん粉の製造技術も飛躍的に発達する。製糖工場は大正9年(1920)に帯広、翌年(1921)に清水に建設され、我が国では難しいとされていた製糖もようやくまともに行なわれるようになり、軌道に乗る。製糖工場はヨーロッパから模範農家を5年契約で招き、実際の洋式農業を農家に見聞させて浸透を図る。
大正12年(1923)にドイツから帯広にグラボウ一家、清水にはコッホー一家が最新式の農業機械を携えて現地に入った。この招へい農家の指導の衝撃は大きかった。農業の基本は土づくりにあるとして、有機物循環のあり方はもちろんのこと、耕起法や整地法の実際の技術を伝授する。また、輪作体系は北欧でつくられただけにその本質を諭している。
彼らの農場は、作物の収量のみならず、品質にも優れていただけにその訴えるところは大きく、北海道の農家は納得してその技術を踏襲した。こうして北海道の洋式農業は、大正時代に入って定着し、拡大する。
馬鈴薯でん粉は第一次大戦が終わると、ヨーロッパからの需要が少なくなり、不景気にさらされるが、次第に国内の一般産業の発展とともに需要が増えて安定した。昭和13年(1938)ごろから戦時色が濃くなって再び低迷するが、第二次大戦が終結すると、昭和25年(1950)から戦後の混乱期を経て、でん粉の需要が増えてくる。
一般産業が発展し、国の経済力がついてくると、さらに需要が多くなり、生産体制の整備が必要となる。昭和30年(1955)に入って合理化でん粉工場が農協系統で建設される動きとなり、商系の多くは撤退を余儀なくされた。
北海道の畑作農業は豆作が主体であり、豆類過作のいびつな構造であった。第二次大戦後、トラクターが導入されると耕土改善が進展し、馬鈴薯や甜菜などの根菜類の収量が大幅に増加するようになる。根菜類は重量作物であり、機械の動力なしには対応できない。畜力からトラクター営農時代に入って根菜類の作付けが増加する一方、豆作が減少し、作物の作付けはようやくほぼ正常な時代を迎える。
根菜類は、寒冷地でも安定した収量があり、収益性の高い作物である。根菜類の作付けが多くなることで北海道の農家は経済的に恵まれるようになる。馬鈴薯は明治時代から食用として重要な役割を果たし、そのうえでん粉に加工することで付加価値を高めて農家経済を支えてきた。北海道にとって馬鈴薯は昔から基幹作物であった。

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