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北海道馬鈴薯でん粉物語

北海道農業の発展過程と特質

馬鈴薯は北海道農業の基幹作物のひとつとして今でも大きな位置を占めている。150年前の開拓時代から現代まで、耕地面積と収量の推移を通して見た北海道農業の歴史。そこから「馬鈴薯でん粉」の背景が見えてくる。
北海道は明治維新後に本格的な開拓が進められた。それから150年に満たないが、耕地面積は120万haに達し、日本一の近代化農業を展開するに至っている。当初、新開地だけにさまざまな困難に遭遇するも、我が国の食糧供給基地を建設するという意図のもとに洋式農法を導入するなどし、新しい境地を切り拓いた。
寒冷地だけに畑作、酪農を主体にするとされたが、日本人住むところに稲作ありといわれるように、農耕民族らしく稲作も成立させている。品種改良や栽培技術の改善で、現在では冷害を克服しているばかりか、収量や品質でも府県に劣らない。

【1】耕地面積の拡大
実質洋式化は明治後期から

耕地面積は明治25年(1892)ごろから拡大している。北海道は開拓の当初から洋式農業を導入したと一般的には考えられているが、その洋式農業のデモンストレーションが盛んに行なわれても、工業力が稚拙であり、鋼材にも不足していれば、無理というものである。また、洋式農業を牽引する耕馬も育成されておらず、洋式農業を展開するには至らない。
明治政府は旧藩の殿様や士族に華族の称号を与え、身分を保証するも、仕事を作ってやる方策を立てなければならなかった。そこで、資金を用立て、北海道開拓に目を向けさせた。八雲に尾張藩の徳川氏、雨竜に徳島藩主の蜂須賀氏、伊達に伊達藩などが大挙して華族農場を展開した。一般の入植者も土地を開墾すれば5haの土地が無償で与えられたのでがんばったが、資金力に優る華族がどちらかといえば先行した。

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