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昭和16年(1941)から第二次大戦が勃発し、労働力不足から各作物の栽培面積が減少する。そんななかで馬鈴薯は食用に供することができ、あまり面積を減らすことはなかった。戦時中は食糧不足から学校の校庭も耕して馬鈴薯を作付けするほどであった。
戦争が終わると、トラクター営農時代を迎える。トラクターで深耕することが可能になり、根圏域(養分吸収範囲)が広がった。昭和30年(1955)ごろから一般産業が復活し、その副産物として化学肥料が使えるようになる。根菜類の増収が著しく、馬鈴薯の収量は10a当たり1t程度であったものが昭和35年(1960)には2tに達し、さらに昭和45年(1970)には3tを超えた。平成5年(1993)になると4t近い収量であり、根菜類の全盛期を迎える。
(次号に続く)
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村井信仁
農学博士
1932年福島県生まれ。55年帯広畜産大学卒。山田トンボ農機(株)、北農機(株)を経て、67年道立中央農業試験場農業機械科長、71年道立十勝農業試験場農業機械科長、85年道立中央農業試験場農業機械部長。89年(社)北海道農業機械工業会専務理事、2000年退任。現在、村井農場経営。著書に『耕うん機械と土作りの科学』など。
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