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編集長インタビュー

ニッチに踏み込む独自経営術 農機が新たな産地を作りだした

新潟というコメ産地にあって、あえて果樹や枝豆など水田農業関連以外のユニークな機器を製造、販売して、独自の地位を築いてきた(株)ミツワ(新潟県燕市)。顧客の減少によって農機業界が厳しさを増すなか、時代を乗り越える術がどこにあるのか。同社の中村克己社長にインタビューした。(まとめ/窪田新之助) 

「ザ・セイホ」の尖兵からものづくりを志す

昆 中村社長はミツワに入社するまでは別の仕事をしていたのですか。
中村 ええ、1981年に入社した日本生命で23年間勤めました。といっても保険の仕事は2年だけで、残りは海外への投資でしたね。当時は日本の生命保険会社が海外で不動産投資をして「ザ・セイホ」などと言われ、良くも悪くも脚光を浴びていた時代です。私はまさにその尖兵でした。日本生命の人生の半分は米国での不動産の仕事です。日本の生命保険会社が海外で不動産投資の仕事をしているというのは、当時もいまもほとんど誰にも知られていないでしょう。入社したばかりの自分ですら知りませんでしたから。私が入社する直前の70年代の終わりから国際化を進めようという動きがありまして、85年に米国に駐在したら、すぐにプラザ合意がありました。それで円高が進み、金の流れが海外に向かうなかで「ザ・セイホ」の資金も海外の不動産に向かった。そこでいわゆる「不動産の買いあさり」の最前線を経験しました。
昆 それからずっと米国ですか。
中村 いえ、90年に一度日本に帰ってきました。そうしたら、すぐに米国で不動産バブルが崩壊しまして。90年代も後半になると米国の不動産マーケットは回復してきましたが、今度は日本でバブルが崩壊してしまった。そんなことがあって、日本の生命保険会社は非常に内向きの姿勢になってしまいました。日本生命は80年代後半から90年代にかけてグローバルな総合金融会社を目指した。それが本業回帰となって、海外への投資はやめましょうとなってしまったんです。80年代後半から90年代にかけて入社してきた連中は「ザ・セイホ」のイメージで入ってきていますから、社内では不満がどんどんたまっていきました。やがて彼らはどんどん辞めていきます。

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