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【編集長インタビュー】
ニッチに踏み込む独自経営術 農機が新たな産地を作りだした
- (株)ミツワ 代表取締役 中村克己
- 2015年09月04日
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「ザ・セイホ」の尖兵からものづくりを志す
昆 中村社長はミツワに入社するまでは別の仕事をしていたのですか。
中村 ええ、1981年に入社した日本生命で23年間勤めました。といっても保険の仕事は2年だけで、残りは海外への投資でしたね。当時は日本の生命保険会社が海外で不動産投資をして「ザ・セイホ」などと言われ、良くも悪くも脚光を浴びていた時代です。私はまさにその尖兵でした。日本生命の人生の半分は米国での不動産の仕事です。日本の生命保険会社が海外で不動産投資の仕事をしているというのは、当時もいまもほとんど誰にも知られていないでしょう。入社したばかりの自分ですら知りませんでしたから。私が入社する直前の70年代の終わりから国際化を進めようという動きがありまして、85年に米国に駐在したら、すぐにプラザ合意がありました。それで円高が進み、金の流れが海外に向かうなかで「ザ・セイホ」の資金も海外の不動産に向かった。そこでいわゆる「不動産の買いあさり」の最前線を経験しました。
昆 それからずっと米国ですか。
中村 いえ、90年に一度日本に帰ってきました。そうしたら、すぐに米国で不動産バブルが崩壊しまして。90年代も後半になると米国の不動産マーケットは回復してきましたが、今度は日本でバブルが崩壊してしまった。そんなことがあって、日本の生命保険会社は非常に内向きの姿勢になってしまいました。日本生命は80年代後半から90年代にかけてグローバルな総合金融会社を目指した。それが本業回帰となって、海外への投資はやめましょうとなってしまったんです。80年代後半から90年代にかけて入社してきた連中は「ザ・セイホ」のイメージで入ってきていますから、社内では不満がどんどんたまっていきました。やがて彼らはどんどん辞めていきます。
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中村克己 ナカムラカツミ
(株)ミツワ
代表取締役
1957年8月、新潟県上越市出身。81年に一橋大学法学部卒業後、日本生命保険相互会社入社。同社では主に国際不動産投資部門を担当。85?90年、95?2002年に米国の不動産投資の現地法人に勤務。02年に退職後、ミツワに入社。03年12月より現職。 ■会社紹介 (株)ミツワ(新潟県燕市) 1970年、ミツワ商会設立。72年、(株)ミツワに。事業内容:果樹人工交配機器、枝豆生産用作業機器、干し柿生産用作業機器、食品加工機器 URL http://www.kk-mitsuwa.com
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