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北海道馬鈴薯でん粉物語

北海道農業の発展過程と特質

馬鈴薯は北海道における基幹作物の一つとしていまでも大きな位置を占めている。今回は前号に続き、馬鈴薯でん粉の背景をなす北海道農業、とくに第二次世界大戦後の展開にスポットを当てた。機械化農業の本格化と、たゆまぬ技術革新の時代に迫る。
(承前)

【4】第二次大戦後
農業情勢の変化

我が国は第二次大戦前から慢性的に食糧不足に苦しんでいた。戦争が終わってこれを補うために緊急開拓事業で農地を拡大しようとする。北海道に組み込まれた予算は約4億円、5年間で70万haを開墾する計画であった。
日本軍に残っていたクローラートラクターなど600台を動員し、プラウ489台、ハロー422台を準備した。この事業は機械開墾の威力を一般に見せつけたが、当時の進駐軍司令部から計画どおり進行していないとして昭和23年(1948)に中止命令が下されて挫折してしまった。

[賃作業を見込んだトラクター導入]
せっかくの機械設備であり、このうちの50セットほどを耕土改善事業に当てることになった。これが発展して昭和26年(1951)から耕土改善事業が始まる。畜力耕では10~15cm程度の耕起深であったが、20cm以上の耕起深にすることを目標にした。そのうち、心土耕プラウや混層耕プラウが開発されて無理なく30cm以上の耕起深にすることが可能になった。
動力による深耕の効果に納得すると、農家はホイールトラクターを自ら導入し、恒常的に深耕して土地の生産性を高めようと目標を設定した。しかし、戦後にあっては外貨に不足していて輸入は簡単ではなかった。昭和26年(1951)にようやく外貨の割り当てがあり、わずかながらもホイールトラクターが輸入できるようになった。
当時、30馬力級のトラクターは家が一軒新築できるほど高価であり、採算は取れないと危ぶまれた。農家はヨーロッパ農業に追いつけ追い越せがスローガンである。現地にあって農家は賃作業の仕事が多いと判断してあえてトラクターを導入した。実際、賃作業の需要は多く、数年で減価償却をさせてしまった。これがきっかけとなってホイールトラクターの輸入は活発になり、今日の大型機械体系の基礎が築かれた。

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