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人生・農業リセット再出発

日本初の女医のピンポイント目標設定

病気になったときの頼みの綱は医者しかいない。ところが、文明開化が始まった明治8年(1875)まで、医師免許というものは我が国にはまったくなく、ちょっとした知識と経験があれば誰でも医者として開業し、民間療法として漢方医療や祈祷師などがごちゃまぜになっていた。
本格的に西洋医学が取り入れられるようになると、国による「医術開業試験」が制度化される。かなり難しい試験のようで、合格率は10%程度だった。 明治維新17年前の幕末に、いまの埼玉県熊谷市で末娘の五女として生まれた荻野吟子(おぎのぎんこ)は、幼いころから利発で男勝りだった。父が教える寺子屋でも、男の子たちに積極的に混じって勉強し、その記憶力には大人たちも舌を巻いた。16歳を過ぎると、隣村の名主の長男に望まれて嫁ぐ。誰もが羨む玉の輿で、夫婦とも美男美女カップルともてはやされた。
だが幸せは3年も続かず、悲劇が始まった。下腹部に激痛が走り、ついには寝たきりになり、実家に帰って療養する。原因は、女遊びをした夫が持ち帰った淋病であった。抗生物質もない時代で、化膿して悪化したのだ。離縁され、東京の順天堂病院に入院。まだ19歳だった吟子は、そこで死ぬほど衝撃を受ける。男性医数人の診察を受けるにあたって、皆の視線の中で、両足を広げさせられたのだ。男性の前で肌を露出することさえ恥ずかしいとされた時代に下半身を露出したまま、じっとしていることは死ぬほど屈辱的なことであった。

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