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北海道馬鈴薯でん粉物語

開拓期の馬鈴薯栽培とでん粉製造


改めて図1を見ると、でん粉生産量と製造戸数は大正まではほぼ同じ傾向で推移している。つまり、1戸当たりの生産量が増えているわけではなく、生産量は製造戸数の増加で支えられていたことになる。これがヨーロッパへの輸出が増えると規模の小さな家内工業的な体制では対応できないとして、規模を拡大して1戸当たりの生産量を多くした。いわゆる経営の合理化の始まりといえる。
豆類もヨーロッパに輸出され、農家経済を潤して豆成金を輩出し、羽振りを競ったことが語り草になった。でん粉の場合は豆類とは若干内容を異にしていたと思われる。というのはでん粉の場合、単価の上昇は表1や表2、表3を見ても、2~3倍に過ぎないからである。これに対して豆類は表4に示すように、輸出が始まってから単価は5~6倍に膨らんでいる。でん粉は個別の農家も潤しているが、どちらかといえば生産量が多くなって地域全体が豊かになった。豆類は経営規模の大きい農家を潤した。
表5は当時の地域別でん粉生産量である。明治40年(1907)の生産量順位は、1位函館、2位後志、3位空知、4位上川、5位桧山であったものが、大正4年(1915)には上川が1位になってこの8年の間に急激に増加して約32倍と突出している。全体では約10倍の生産量であることにも驚かされるが、北海道全体ででん粉景気に沸き立った様子がうかがえる。
大正4年の2位以降を見ると、函館、後志、空知、桧山と続く。この時点ではやはり当時の先進地が強いといえるであろう。農業条件に恵まれている河西(十勝)や網走も次第に台頭してきている。
表6に国別のでん粉輸出量を示した。ピークは大正7年(1918)で、第一次大戦が終結した年である。輸出量は、イギリス、フランス、アメリカの順になっている。大正6年(1917)を100%とすると、大正7年(1918)は166.2%ながら、大正8年(1919)が70.5%、大正10年(1921)が4.6%と極端に減少し、でん粉景気の終わりを告げる。こうした流れを予測できないまま設備投資を行なった工場は破産に追い込まれたりして以後しばらく不景気の時代が続いた。

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