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新・農業経営者ルポ

オーガニック大豆の大規模経営を実現させた「脱固定観念」発想


両親は平均的な耕作規模の稲作農家を営んでいた。1950年代の上川盆地の農業は稲作が中心で、耕作規模は2.5ha程度だった。子供のころの記憶によれば、まだコンバインもバインダーもない時代の稲刈りは、昼間に手刈りしたものを月明かりの下でハザがけしたそうだ。その後、ハザから下ろして納屋に運んで積み上げ、脱穀。脱穀後のワラは短く押し切りにして山積みにして水をかけて堆肥にする。春までに2、3回フォークで切り返し、水田に戻す。この一連の循環が当たり前のように行なわれていた。今城は貴重な男手として、子供のころから学生時代まで当然のように農作業を手伝い、一連の作業の流れをこなしていた。
近所でもコメ作りの腕を評価されていた父の農業も、若い今城には朝から晩まで続く非効率な農作業という印象でしかなかった。「農業が嫌でこんな百姓にはなりたくない」。そう心に決めていた今城は、長男でありながら農業を継がず、別の道を志すこととなる。当時の旭川は恵まれた森林資源を活かした産業が盛んで、木工というモノづくりの世界が魅力的に映ったのだ。中学を卒業すると、木工技術を習得するために職業訓練所に通った。
実家の手伝い、アルバイトを経て、26歳のころに建具屋として独立。経営者として歩き始めた。木製の引き戸やドアの建具は、当時の住宅を建てる際には欠かせなかった。現場で寸法を測って打ち合わせをするのだが、「20代の若造」は大工さんに技術屋として扱ってもらえず、随分悔しい思いをしたという。
「建具屋を始めて、世の中の仕組みがわかってきたんだよね。若さゆえに馬鹿にされたり、一人前に扱ってもらえなかったり、そういう悔しい経験をすると、それをバネに人に負けないという意識ができる。あのころがあったからいまがあると思う」

モノづくりの基本は
「人と違うものをつくれ」

最初のうちは苦労したものの、技術を認められると、仕事は軌道に乗った。しかし、時代は高度成長期。アルミサッシが登場すると、建具は必要とされなくなっていった。そこで、建具に代わって手がけたのは家具である。家具もまた、既製品は先々売れる見込みが立たないことがわかり、店舗設備に仕事の場を広げた。店舗設備とは、デパートなどの店舗で商品を並べる陳列棚である。
「そうやって仕事を変えていくと、技術が必要になる。誰も教えてくれないので、自分で工夫していかないとね。簡単にできるわけじゃないから、失敗もして、それを繰り返して技術が身に付く。常に人にないものを身に付けようと思うから、次第に他の人がやらない仕事を取るようになるんだ」

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