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新・農業経営者ルポ

家族でできるからこその農業

 佐野はそう言うが、そんな彼の後を追って農協出荷を止める人も出てきた。生産者の数は否応もなく減っていくのだろう。でも、それをぼやくのではなくチャンスと考える若者たちもいるのだ。すでに、農協に出荷するのは老人たちばかりになっている。

 弘樹たちが(有)いちごやさんを継いでくれるのも、単に暮らすに足るお金がそこで得られるからだけではあるまい。佐野が望んだお客さんの喜ぶ言葉や顔を実感できることを通し、仕事への充実感があるからだろう。

 かつて農協に出荷していた時代に収益以上にお客さんの顔が見えず、満たされない思いを感じていた佐野だけに、直売だけでなく農家ならではの自家製ケーキを提供できる場ができたことを嬉しく思っている。

 先にも述べたが、佐野は庭先の無人販売所だけでなく、市内各所に13台もの自動販売機を置いたこともあった。一部の売り場所には両替機まで置いた。自動販売機は1台35万円、両替機は1台45万円もした。高い買い物だったが、それが必要なほどお客さんの評判は上々だったのだ。置く場所を貸してもらう家や商店には月1万円の謝礼も出した。一番売れたのはコンビニエンスストアの前だった。

 当時の富士宮農協でイチゴを生産していたのは17戸。でも、そのイチゴは東京の市場に行ってしまう。地元のお客さんは産地にいてもイチゴの本当のおいしさを知ることがなかったのだ。地元スーパーといえども、当時は市場経由で店の棚に並ぶには時間がかかった。佐野がハウス内で完熟させたイチゴを直接売ればこそ、お客さんの支持を得たのである。そして、それが地元の量販店を動かしたのだ。


米国研修で学んだ家族農業の意味

 現在59歳の佐野は、1969年に富士宮農業高校を卒業し、さらに74年から農水省の派米研修生として米国の農場で研修した。今とは比べものにならないほど、日米の経済格差のある時代だった。その豊かさに圧倒された。最初の語学研修の後に配属された研修先は、花木を生産するオランダからの移民一代目の農家だった。新規入植者としてのチャンレンジ精神とともに、家族というものを改めて感じる体験でもあった。そのほかの農家にも研修に回ったが、米国の農家のビジネス感覚とともに、それが家族農業という形で行なわれていることに強い印象を持ったのだ。

 日本に帰ってきた当時の佐野の家は、3ha程度の畑を持つ、地域では平均的な農家であった。米国の実態を見てきた直後だけに、違いを実感させられた。子供であっても一人ひとりに個室が与えられ、自由に明るく振る舞う米国の家族と比べれば、当時の自分だけでなく日本の貧しさは比較にならないほどだった。でも、佐野は家族の温かさの意味に改めて気付かされた。米国で様々なことを学んだが、佐野が一番学んだのは家族のことだという。家族農業の意味や価値にこだわるのもそのためだ。

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