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新・農業経営者ルポ

条件の悪さは農業経営者の妨げにはならない


当時のリンドウ栽培は苗を供給する種苗メーカーなどはなく、生産者自身が交配するところからやっていた。交配に1年、さらに苗作りで1年、生産は3年目からだ。
熊谷に3年間の修業期間など許されない。45日間、茅野にいて、その年から熊谷のリンドウ生産は始まった。昭和49年(1974)のことだ。体験できないものは聞き、1年に1回くらいは長野を訪ねた。それでも聞いたことと理解することとは違う。見ないとわからないことがある。長野のやり方が山形でうまくいくとも限らない。リンドウ作りを完全に自分のものにするまでには10年かかった。
コメで年間80万円にしかならなかったものが、始めて5年目で販売額が1000万円になる。10年目には面積も1haになり、売り上げも3000万円に達した。
しかし、規模拡大するにはかつては想像もできないような資材投資が必要だった。それ以上に最初の2年間は生活費を得る術がない。始めてからも5年間はコメ作りをしていたが、夏の間、家族全員がリンドウの仕事にかかりっきりになり、誰も賃稼ぎに行く余裕がない。暮らしは貧しさのどん底で農協には借金の山ができた。それでも、父親を含めて家族全員がリンドウに賭けていた。
市場に対する営業にも力を入れた。でも、最初は市場の仲買人たちは新参者を認めてくれず、すばらしい品質のリンドウができたと思っても市場の人々は熊谷をほめてはくれない。悔しかった。意地悪されているのではとも思った。でもそれは見所があると認められればこそだ。それが当時の市場であり、仲買人だった。値段も安い。努力しても当時の市場では新参者の座る椅子の順序は下なのだ。
それでもやがてリンドウの世界で一番の座を得ることになる。リンドウ1本が550円という記録的価格を付けたこともあった。
しかし、挫折がやってくる。
熊谷が出荷したリンドウが種苗法に違反した品種盗用であると裁判を起こされたのである。自ら交配を続けながらも当時の熊谷には品種登録をするなどという知恵もなかった。しかし、相手に品種登録がある限り勝ち目はないと弁護士に言われて和解した。熊谷は決して盗んだわけではないが、偶然にも同じ色同じ形状になってしまったらしい。結局、200万の違約金を支払った。

バラ農園としてのチャレンジ

リンドウ作りに対する意欲が薄れていく。しかし、それが現在のバラ生産農場としての熊谷園芸を始めるきっかけになった。

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