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成田重行流地域開発の戦略学

大島と緑の真珠


その最たるはエンジンの修理などを仕事にしている関勇さんだろう。関さんは毎年、自宅のある群馬県桐生市からキャンピングカーに乗ってやってきて、数週間にわたってこの民宿に滞在する。驚くことに、そのキャンピングカーの前後左右には「くりこ」という民宿名と一緒に、その電話番号までがデカデカと書いてある。全国を走り回る無料の宣伝カーだ。
たまたまこの日も関さんの滞在期間に重なっていた。このほかに元漁師でいまは「くりこ」で働く清水洋佑さんも交えて、私たちは雑談を始めた。かつて遠洋漁業で世界を旅した話を聞くと、水上さんも清水さんも我先にと話してくる。その武勇伝に耳を傾けていると、みんな笑顔がこぼれてくる。だが、話はいつとはなしに震災当時のことになっていた。

自然を失った漁師の
暗闇に沈んだ悲しみ

清水さんは震災当時、気仙沼市街地の病院で入院している実母に付き添っていた。看病の期間が長引くことから、清水さんと奥さんは気仙沼港がある「本土」側にアパートを借りていた。
あの日、奥さんがアパートで留守番をしていた。地震が起き、すぐに津波がやってきた。アパートは流され、奥さんは行方不明になった。奥さんの行方がわからぬまま、実母を看病したものの、3月19日に病院で息を引き取ったという。それからしばらくして、奥さんの亡骸が見つかった。
水上さんは成田さんが最も長いこと心配した人だ。その仲が始まったのはおよそ20年前にさかのぼる。当時、東北福祉大学で特任教授だった成田さんは、大学のとある講座に参加していた水上さんと出会った。それは気仙沼の郷土料理や食と健康との因果関係などを学ぶというものだった。
その講座は現在に至るまで続き、成田さんと水上さんの縁は深まっていった。
震災直後、成田さんは水上さんに何度となく電話をかけた。だが、まったく出てくれない。携帯電話はもちろん、自宅にもかけた。そんな状態が、2カ月も続いた。
「水上さんは深い暗闇の中にいたんだよね」
成田さんは静かに語る。水上さんは当時の心境について「大事にしていた自然が壊されたことが本当に悲しかったんだ」と振り返る。

時代の流れは変わっても
海で生き続ける

水上さんは10代で漁師になった。「人の後ろを歩くのは好きじゃない。誰もやったことないことをするから面白いんだ」
そう語る水上さんは未開拓の漁場を求めて、遠方はペルー沖まで進出していった。
当時の面白い話や勇ましい話を挙げれば切りがない。自宅にお邪魔したときに水上さんが持ってきた写真には、昭和40年ごろ、南米のある国で撮影した船員たちの姿が映っている。彼らの前には細長い物体がやたらと並んでいる。

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