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北海道馬鈴薯でん粉物語

動乱期から技術革新期の動向(大正時代後期~昭和時代~平成時代)

馬鈴薯とでん粉の生産

1戸当たりの馬鈴薯作付面積の堆移を表1に示した。明治時代後期から大正時代初期までは渡島が4,0ha前後と一番多かった。
大正時代中期から昭和時代初期は上川に交替する。これはでん粉工場が組織化されたことによると考えてよい。昭和初期から宗谷、根室、網走の寒冷地の作付面積が増えているのは、酪農や畜産などが未発達であったため、畑作のなかでどの作物を選ぶのかとすれば、寒さに比較的強い馬鈴薯を選んだということであろう。昭和14年を過ぎると、網走や十勝の大規模畑作地帯の作付けが増える。
面積当たりの収量推移は表2である。収量は明治以来、10a当たり1000kg前後であり、あまり変化はない。輸入品種に国産品種も加わっているが、化学肥料をふんだんに使える時代ではなく、栽培技術の改善も目立ったものがなければ当然のことであろう。
第2次大戦後の作付面積と収量推移は表3に示した。化学肥料が使えるようになると、肥料反応の良い馬鈴薯は増収が著しく、昭和25年(1950)に50%増加の1500kg/10aに達している。翌昭和26年(1951)から耕土改善事業がスタートし、土層、土壌改良の効果もあって、昭和35年(1960)には早くも2000kg/10aに達している。
昭和30年(1955)ごろから大規模畑作地帯にはホイールトラクターが導入され始め、農家は自ら圃場の深耕に力を入れる。畜力時代の倍の深耕を目標にするが、深耕は根圏域(養分吸収領域)を拡大するばかりではなく、排水性を良好にする効果も認められた。一方、化成肥料を使える時代ともなると、昭和45年(1970)には3000kg/10aを突破している。
ホイールトラクター営農時代になると、まずポテトプランターが開発され、正確な植え付けが可能になった。同時に、新しい農薬が使えるようになるとともに、我が国独自の高圧スプレーヤーが開発され、病害虫防除に威力を発揮するようになった。種イモの施設貯蔵が定着するのは昭和50年(1975)からである。所定の温度で貯蔵され、出庫にあたっては温度を調節し、休眠を明けさせて催芽するなども行なわれるようになった。これをハウスで浴光させれば浴光育芽である。こうしたことが均一に実施されるようになると、健全に生育し、増収に結びつくのは必然である。

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