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成田重行流地域開発の戦略学

大島と緑の真珠-復興そば物語


昔、一人の旅人が津波で被害のあった大島を訪れました。海岸には大きな松の木が根こそぎ倒れ、舟も陸に上げられ、大松のてっぺんに漁具が絡み付いていました。
真夏の太陽が照りつける中、旅人は長崎の丘を登っているとパンパンパンと板を叩く音が聞こえました。音のなる家の庭先を見ると、若い奥さんが海から上がったばかりの岩ノリ、マツモを板に手で張っていました。この若い奥さんは島でも海藻採りの名人で名前をおすみさんといいます。
普段はおとなしく、おしとやかですが、海に出ると一変、目の鋭い狩人になり、ヌルヌルの岩を飛びまわり、ねらう海藻を次々収穫します。
旅人が庭をのぞいているとおすみさんが「お茶でもいかがですか」と声をかけました。
母屋の縁側に腰をかけお茶をいただきました。
話は島の苦しい生活や先が見えない不安でいっぱいでした。津波の被害を受ける前は何不自由ない生活でしたが、今はむしろ大昔の生活に戻るしかないと嘆いていました。
その昔、米が採れないこの島はそば粉を湯で溶きとろみの汁を麦飯にかけ食べていたそうです。
旅人はこの島で昔食べていたそばに興味を感じました。
(『気仙沼大島 復興そば創作物語(7)』)

復興に向けた一筋の光
ソバの白い花

本連載の読者の方なら、「旅人」とは誰のことかお察しだろう。成田さん自身のことである。まさに旅人が見た景色は、成田さんが震災後に目にした大島の惨状だ。
旅人ならぬ成田さんは、震災が起きてから大島に毎月のように来ている。大島が復興する手がかりはどこにあるのか。その一筋の光を求めて、島の古老たちに伝統的な食文化について尋ねていった。
そんななかで『創作物語』にあるように、ある人たちが大島でかつてソバを食べる習慣があったことを語ってくれた。それは前号に登場した水上忠夫さんと妻のひろ子さん。忠夫さんは市議会議員や漁協の理事などの重職を務めてきた島のリーダー的な存在である。成田さんは過去に何度もソバによって地域開発をしてきた。だから、忠夫さんやひろ子さんからその話を聞いたとき、大島でもソバで復興のための事業を興せるかもしれないとひらめいた。
次の日から、さっそく島内を歩き回り、ソバ文化の痕跡を探し始める。どこかに、こね鉢や麺棒、石臼などの道具が転がっていないかと思ったわけである。ただ、まさか、そのものずばりを見つけられるとは想像もしていなかったようだ。がれきのなか、なんとソバの花が咲いていたのだ。そのときの衝撃について次のように書いている。

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