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新・農業経営者ルポ

栗の新ブランドを立ち上げた57歳の決断


「ここは台地で、川が流れている辺りはかなり深い谷になっている。稲作のために水を引くにはかなりの困難を要するから、コメはあまりできなかった。それで代わりに栗を奨励したんだろう」
佐竹公はこの地の百姓に年貢としてコメではなく栗で代替させた。佐竹家の一族である佐竹北家の日記『北家御日記』(秋田県公文書館蔵)にはその記録が残っている。

壊滅の危機を乗り越えて
誕生した西明寺栗

ただ、近現代において西木町の栗は別の価値を持つ。果実としてよりも、国鉄のレールに敷く枕木としての需要のほうがずっと強くなったのだ。栗の樹は腐りにくく、虫も食べないほど硬いので、材木にはもってこいである。
だが、1960年ごろに事態を一変させる出来事が襲う。栗の樹が夏だというのに突如として葉を赤らめ、次々に枯れていったのだ。原因は外来種のクリタマバチだった。
1940年代に中国から入り込んだというこの害虫は、岡山県で初めて確認された後、日本全国に勢力を拡大していった。そのせいで西木町ではほとんどの栗園が壊滅状態に陥ったそうだ。
それでも数戸の園地だけは生き残った。そのなかに赤倉栗園もあった。
当時の経営者は赤倉の父である禮夫。彼は農村のリーダー的な存在だったのだろう。枯れずに残った栗を普及し、そのブランド化に向けて周囲の農家とともに生産組合をつくる。じつは西木町の栗が「西明寺栗」と名づけられたのはこのとき。禮夫が選別や出荷の規格を定め、そうした一定の基準をクリアしたものだけを「西明寺栗」として販売することにしたのだ。
クリタマバチの被害に遭わずに生き残った栗の系統は5つある。それぞれ「西明寺栗」1~5号と名づけられた。このうち現在まで主に栽培されているのは1号と2号。そして1号こそが赤倉栗園に伝わってきた系統である。
禮夫が生産組合の組合長としてとくに力を注いだのは品質の均一化だ。それまでは農家が個々に軒先で販売する程度で、出荷規格など存在しなかった。
禮夫は整枝や剪定の仕方を組合員に教えながら、全国に技術研鑽のため視察に出かけた。そのなかには本誌でもたびたび紹介してきた、茨城県かすみがうら市で15haの栗園を経営している四万騎農園もある。

家族の死を機に
実家の栗園を継ぐ

赤倉自身は、こうした父の活動をつぶさに見てきたわけではない。というのも、地元の農業高校を卒業後、しばらくしてから旧西木村役場に勤めたものの、5年で辞めて県外で過ごしてきたからだ。以来、さまざまな職を経験しながらも地元に戻ることはなかった。

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