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今月の数字

1716年=300年前(米将軍と呼ばれた徳川吉宗が8代将軍に就任した年)

今年は、徳川吉宗が徳川幕府の8代将軍に就任した享保元年(1716年)から300年になる。吉宗は、江戸の三大改革の一つである享保の改革を実行した江戸幕府中興の祖であり、時代劇で長期にわたってシリーズ化されたテレビ番組で誰もが知っている人物だ。享保の改革とはどのようなものだったのか。
戦乱を最終的に平定した江戸幕府開府から100年以上経ち、従来「半農半武」だった武士はホワイトカラーとして都市で生活するようになった。生産手段を持たない給与生活者という意味では現代のサラリーマンや公務員と似ている。農村では、兵農分離により大規模家族による農業経営が解体し、小規模な家族労働による集約的な稲作中心の農業生産が発展した。
この結果、コメの過剰生産が進み、米価は1681年をピークに18世紀まで低下の一途をたどる。また、享保時代を30年さかのぼる元禄時代は、貨幣切り下げによる市中の貨幣流通量の増加で空前の好景気に沸き、京都・大坂で生産された「ブランド品」が消費地江戸に流通するモノの流れを作り、貨幣経済が浸透したが、コメを売って農具や肥料を購入する農家や、コメを給与としている藩や武士の経済は困窮した。天災続きが追い打ちをかけてバブルは崩壊、財政難のなかで享保時代が始まった。
吉宗は「米将軍」と呼ばれたほど、コメの対策に重点を置いた。利益を幕府と町人で分ける形で民間活力を活用した新田開発を進め、年貢を定率でなく定額とすることで従来に比べ率を上げずに年貢額を増やした。さらなる増産で米価が低下するのを防ぐため、大坂に設置されていた堂島米市場を公認し、市場に介入して流通量を削減することで米価を引き上げる政策に転換した。具体的には、諸大名にコメを買わせる「買米令」、飢饉に備えてコメを備蓄する「囲米」、江戸や大坂にコメの流入を防ぐ「廻米制限令」等の政策が取られたほか、「酒造制限令」を解禁してコメの消費量を増やそうとした。今日のコメ政策に酷似しているが、米価のコントロールは必ずしもうまくいっておらず、コメ政策については後世評価の分かれるところとなっている。

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