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北海道馬鈴薯でん粉物語

合理化馬鈴薯でん粉工場の誕生の経緯と成果


士幌は山麓に近いため、気象条件はあまり恵まれていなかった。戦前、戦中の経済作物といえば豆作であり、これが収量も低く、冷害の被害も大きかった(図3)。どちらかといえば貧しい農家が多かったといわれている。第二次大戦後、根菜類が増え、でん粉工場などの農産加工が盛んになるとようやく経済的に恵まれるようになる。豆作依存から脱却し、また酪農や畜産も力を付けてきたことからバランスの取れた農業の組み立てになっている。
士幌は比較的貧しい地域であったので大改革ができたと表現する人もいるが、まったく当てはまらないわけではない。ともあれ、士幌には太田寛一さん、秋間勇さん、飯島房芳さんなどの英傑がいて、農村ユートピアを建設しようと議論を戦わし、農民運動の先頭に立った。この功績は大きい。安村さんなどがこれに加わって、技術で支え、夢を実現している。
戦後の農業にはホイールトラクターが導入されたのが大きな特徴である。トラクターの力が深耕を可能にし、土地の生産性を高めたばかりではなく、適期作業を可能にして作物の生産性も向上させている。士幌農協はトラクターの導入にも組織的に対応し、トラクターの能力を理解し、効率的に活用するために講習会を開催するとか、トラクター管理共進会を通じて、適切に管理している農家を表彰するなどしている。表9はトラクターの普及台数の推移であるが、年ごとに台数が増え、また大型化している。昭和40年代(1965年前後)は機械に対する投資が多すぎて機械化貧乏といわれる地域も出てきたが、士幌については農協の指導が行き届いており、そんな気配は微塵も感じられなかった。
根菜類が増えて農業経営を豊かにしたが、根菜類は重量作物であるだけに大型機械によって支えられたといってよい。士幌農協はそういった面でも先導的な役割を果たしている。

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