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【北海道馬鈴薯でん粉物語】
トラクター営農時代を迎えての馬鈴薯栽培に関する農業機械の開発改良技術ポテトプランター
- 農学博士 村井信仁
- 第10回 2016年04月04日
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ホイールトラクターが導入されても、当初はプラウやハローによる耕起作業が主体であった。トラクターは高価であったが、作業機も高価であったので、農家には作業機まで輸入する余裕はなかった。また、土壌条件も栽植様式も欧米とは異なっており、農業に対する感性も微妙に違いがあることから、作業機のほとんどはサンプルマシンを導入するにとどめ、国産化を進めようとする意向にあった。
プラウやハローから次第に施肥・播種機、中耕除草機、防除機、収穫機へと国産化が進展する。ポテトプランターは昭和35年(1960)ごろから国産化に着手する。比較的早かったのは馬鈴薯の播種が重作業であったからである。農家は薯播箱を背負い、両手で播種していたが、まずこの省力化のためにトラクターの後部に種イモを乗せる台を取り付けた(写真1・2)。その台の後に4人の作業者が付いて歩き、台の種イモを拾っては播種する方法を工夫した。種イモを背負うことがないので労働負担が軽減された。また、大量の種イモを積載できるので播種の能率も高まった。
ここから抜け出すために、欧米のプランターを模倣しようとしたが、鋳物を使って堅固な作りであるのはよいとしても、使い勝手が不便な構造であり、どうしても納得できない。そこで北海道で普及している豆類播種機を参考にして独自のものを開発することになった。
豆類播種機も、じつは大正12年(1923)にドイツから招聘されてやってきた模範農家が持ち込んだ播種機を参考にして、日本風のものにまとめたものである。十勝のメーカーはそうしたことを経験しているので、作りやすく、扱いやすく、種子を損傷させることなく正確に播種できるものを開発する。
プラウやハローから次第に施肥・播種機、中耕除草機、防除機、収穫機へと国産化が進展する。ポテトプランターは昭和35年(1960)ごろから国産化に着手する。比較的早かったのは馬鈴薯の播種が重作業であったからである。農家は薯播箱を背負い、両手で播種していたが、まずこの省力化のためにトラクターの後部に種イモを乗せる台を取り付けた(写真1・2)。その台の後に4人の作業者が付いて歩き、台の種イモを拾っては播種する方法を工夫した。種イモを背負うことがないので労働負担が軽減された。また、大量の種イモを積載できるので播種の能率も高まった。
ここから抜け出すために、欧米のプランターを模倣しようとしたが、鋳物を使って堅固な作りであるのはよいとしても、使い勝手が不便な構造であり、どうしても納得できない。そこで北海道で普及している豆類播種機を参考にして独自のものを開発することになった。
豆類播種機も、じつは大正12年(1923)にドイツから招聘されてやってきた模範農家が持ち込んだ播種機を参考にして、日本風のものにまとめたものである。十勝のメーカーはそうしたことを経験しているので、作りやすく、扱いやすく、種子を損傷させることなく正確に播種できるものを開発する。
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村井信仁
農学博士
1932年福島県生まれ。55年帯広畜産大学卒。山田トンボ農機(株)、北農機(株)を経て、67年道立中央農業試験場農業機械科長、71年道立十勝農業試験場農業機械科長、85年道立中央農業試験場農業機械部長。89年(社)北海道農業機械工業会専務理事、2000年退任。現在、村井農場経営。著書に『耕うん機械と土作りの科学』など。
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