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人生・農業リセット再出発

Boys, be ambitious!


農学校では、16歳から20歳まで24人の生徒が待っていた。彼らは藩士の次男や三男。士農工商という身分制度の士族という最上段に位置していた彼らは、戊辰戦争で敗れた旧幕府賊軍、落ちぶれた負け犬とはいえプライドは高い。故郷では食いぶちのない彼らに残された道は開拓地に渡ることだったとはいえ、身分意識が強く残る時代に百姓にならなければならない憤懣が鬱積していた。各地から集まった生徒たちは、酒を飲んでは、お互いを田舎者扱いする喧嘩の連夜。授業もうまくいかないまま、開校1カ月で5人が退学処分になるありさまだった。
米国から持ち込んだ牛だが、餌の草がない。牧草を育ててもらえないかと地元の農家に依頼するが、人が口にしない草を大切な畑に植えてどうする? 異人は異常だ!と一蹴される。さりとて後には引けない。酒好きで米国から持参したワインを投げ割ってみせ、皆にも禁酒を誓わせ、校則の本は破り捨てて、「Be Gentleman!」、自己を律する紳士であれ!と宣言し、全員が署名して意を新たにする。博士は、学生の英文法やスペルチェックも深夜まで添削指導した。
そんな熱血指導の8カ月が経ったころ、西郷隆盛が明治新政府軍に反乱を起こした西南戦争が勃発。祖国の南北戦争を彷彿とさせ、この国でも教え子たちが戦場へ赴くことが現実となりつつあった。二度と生徒を死なせたくない。博士は、札幌時計台の建設を始める。屋根の下に柱のない風船みたいな大きな空間の構造は、武道や軍事訓練を行なう演武場として設計した。わが身を護ることを身につけて生き残ることで、長年にわたって会得した学問も知恵も後世に残すことができるからだ。 博士は9カ月で帰国するが、別れの挨拶でこう言った。「Boys be ambitious, like this old man(少年よ、大志を抱け! この老人のように!)」。
米国に帰国後8年の58歳時、教え子の一人が日本から博士を訪ねてくる。日本で生徒たちと過ごした日々が私の人生で最良の時間だった……病床の博士は涙を流して懐かしんだ。その教え子は、同志社大学を創設した新島襄である。生徒には、後の開拓使長官、総理大臣になった黒田清隆など歴史に残る多士済々がいる。札幌農学校、現在の北海道大学は、博士の帰国から12年後にようやく花開き、1889年には牛乳のよく出るホルスタインを導入して3割増しの乳量になる。最初は3頭の牛だったのを繁殖させて現在では1259代目となり、全国生産乳量の4割が北海道産にまでなる。

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