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我が国の米政策はなぜこうなったのか

需給調整の主体は誰か、いまだ続く「が・も」論争


樫原 この時点で政府の姿勢は完全に米価引き下げでした。7月22日の第三次中曽根内閣発足にあたって、首相は前川レポートの断行などを入閣の条件にしていたからです。ところが、これで政府は自民党をコントロールできなくなってしまいましたね。そこでコメ対策本部は特別運動本部を設置し、自民党議員への陳情活動を続けた。とくに強烈だったのは私どもメディアが「踏み絵」と称する、米価据え置きを求めたアンケートと署名活動(※3)です。米価引き下げに失敗した後でクローズアップされることになるわけですが、農業政策は選挙の争点になるほどの影響力はありませんでしたね。
針原 自民党内の審議段階では、良識ある農林幹部の先生が農協と関係議員の圧力をなんとか跳ね返してくれていました。自民党米価委員会は、米審当日の明け方、食糧庁が算定試算から激変緩和の要素を考慮して決めたマイナス3.8%の政府諮問を了承したのですが、続いて開催された総合農政調査会・農林部会合同会議は了承を得られないまま終了してしまいました。
樫原 党内審議が終わらないので、8月5日午前10時に始まった米審はすぐに休憩に入り、再開したのは午後1時過ぎ。予備日の7日の真夜中まで続きました。後藤長官の回想録(『現代農政の証言 書いたこと話したこと』農林統計協会)によれば、米審が7日の真夜中に両論併記の答申が出てから散会したときに「私(註・後藤)は岩持全中会長を廊下の隅に呼び出して『パーセントは言わない』、とにかくほんの僅かでも今年は下げておいた方が良いですよ。農業、農民、農協のためにその方が良い。据え置いたりしたら後で大変なことになる』と言ったが、『いやあ、後藤さん、もうこの問題はわれわれの手を離れました。あとは政治に任せましょう』という返事しか返ってこない。」と記しています。大勢の議員を動員した政治ショーを始めてしまった以上、全中も引くに引けない状態だったのでしょう。結論は政府、自民党の政治折衝に委ねられましたが、簡単にはまとまらず、9日未明になって、後藤田正晴官房長官が据え置きを決断し、最終的に中曽根首相が決定した。これではたがが外れて減反拡大どころではなくなると恐れた後藤長官が冒頭の念書作成を提案したわけです。全中幹部も内容を事後了承しましたが、「が」ではなく「も」にしてくれと騒いだのです。

86年の米価据え置きは
農協側の勝利だったのか

昆 米価据え置きが決まって、全中の岩持会長は“勝利宣言”しました。本当に農協は勝利したのでしょうか。

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