ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

我が国の米政策はなぜこうなったのか

ウルグアイラウンド合意前後の農政改革と政治情勢


昆 そのあたりをもう少し詳しくお話しいただけますか。
針原 当時、すでに食管制度は無きに等しい状態でしたから、制度を変えるのは外圧ではなく内部の自己改革努力であり、外圧がどうのこうのよりも、早く変えなければならないと思っていました。同じ意見を持つ農水官僚もいました。しかしながら、一方では現実問題として、「ウルグアイラウンドの交渉期間中に大きな改革はできない」という共通認識が省内には当然ありました。
樫原 コメの話題はとくにそうでしょうね。
針原 まさにコメは神聖な存在であって関税化の議論をすること自体が不謹慎、国賊ものだという雰囲気で、とても改革に向けた議論ができる状況ではなかったですね。ましてや食管制度の根幹にかかわる議論など論外でした。「いまは大きなことができないけれども、この交渉が終わったら合意内容がどうであれ、この間に練り上げてきた案を一気に出して大改革を実行に移し、グローバル化が進むなかでその流れに立ち向かわなければならない。交渉終結後を見てろ!」。これが当時現場を担当していた食糧庁を含む農水官僚の偽らざる本音でした。
樫原 要するにウルグアイラウンド交渉をやっている間は、制度の微調整をやられていたと。たしかに、完全自給体制を守れという枠がはめられていたんですね。
針原 米価は86年の引き下げ失敗に学び、政治や農協の影響を受けない自主流通米を流通の主体にする取り組みを進めました。
昆 「自主流通米」制度は69年に食管法の政府への売り渡し義務に違反するヤミ米と区別するためにできたわけですが、80年代後半には米流通の4割を占める存在になっていましたね。
樫原 食糧庁長官の諮問機関として86年秋に発足した米流通研究会(87年に解散)は、自主流通米の取引市場を設けて、自主流通米を主体にして規制改革を進めるべきだという報告書を取りまとめました。開明的な内村良英元次官らが農政審議会で下絵を描いていました。この提言が実現すれば、コメの価格は合わなくなる。つまり、米価が自由に決まるようになると座長の渡辺五郎(元次官)は解説してくれました。それを受けて私は「食管制度、間接統制に移行へ」と1面トップに書いたわけです。
針原 実際に自主流通米を取引する価格形成センターができたのは90年のことです。その前年、89年の米価では「担い手重視」にしようと、耕作面積1.5ha以上の農家の生産費をもとに算定する案を提示したのですが、その言葉がけしからんということで、見事に農業団体の抵抗でたたきつぶされました。同じ案ではつぶされかねないということで、翌91年に都道府県ごとに平均値を上回る農家を選ぶという「地域方式」が導入されたんです。91年の米価は1万6392円に下がり、98年まで8年間据え置かれました。米価の算定方式は「潜在需給ギャップ反映生産費・所得補償方式」だったわけですが、価格形成センターの運営が軌道に乗ったあとは、自主流通米の市況を加味した自主流通米価格反映方式に移行して、実質的に生産費・所得補償方式は瓦解しました。

関連記事

powered by weblio