記事閲覧
【成田重行流地域開発の戦略学】
続・内藤とうがらし復活物語 東京都新宿区
- 第13回 2016年11月04日
- この記事をPDFで読む
今年も盛り上がった10月の新宿区
10月初めに東京都新宿区を訪れた人たちは、さまざまな店や建物で「内藤とうがらし」という文字が書かれたポスターやのぼりを見たことだろう。
たとえば高田馬場駅周辺に掲載されたポスターには「内藤とうがらし」と並んで「バル辛フェスタ2016」という文字がある。この界隈のバーや中華料理屋など27店舗の飲食店が期間限定で、それぞれ独自に考案した内藤とうがらしの料理や飲み物を扱ったのだ。前売り3000円、当日売り3500円で販売するチケットは4枚つづりとなっており、1枚でドリンクと食事を一つずつ提供する。一方、四谷では今年収穫した内藤とうがらしで「七味とうがらし」ならぬ「七色とうがらし」を調合するのを実演し、販売した。それぞれの活動から地域ごとの特色がうかがえる。
かつて新宿を赤く染めた内藤とうがらし
昨年11月号でもこうした活動の中身については紹介した。ただしそれから1年が経っているので、改めて内藤とうがらしについて紹介しておきたい。内藤とうがらしは6代当主(7代との説もあり)の内藤清枚(きよかず)の新宿にある下屋敷で栽培されていた八房系である。同月号ではこのトウガラシが広がっていた背景などについて次のように書いている。
「江戸では新宿中の農家がこのトウガラシを作るようになった。それは次のような理由からである。江戸は人口の大半が男性。侍や職人などの単身者が多く、彼らは自炊するよりも屋台で飯を食うことを日常としていた。とりわけ手軽に食えるソバ屋がはやった。そしてソバの薬味として提供されたのが七味トウガラシだったのだ。
成田さんが最近自費出版した『情熱の!新宿内藤とうがらし~新宿名物誕生物語~』によれば、このトウガラシは空に向かって実を着けることから、新宿から大久保までの一帯は、秋になると赤いじゅうたんのようだったという。太陽の光をさえぎるようにしてビル群が立ち並ぶ、現在の新宿からは想像できない光景である。
会員の方はここからログイン
ランキング
WHAT'S NEW
- 有料会員申し込み受付終了のお知らせ
- (2024/03/05)
- 夏期休業期間のお知らせ
- (2023/07/26)
- 年末年始休業のお知らせ
- (2022/12/23)
- 夏期休業期間のお知らせ
- (2022/07/28)
- 夏期休業期間のお知らせ
- (2021/08/10)